チェルノブイリでの放射線防護と、その後


イヴ・ルノワル

この文章の原文は、2014年10月14日に早稲田大学内で開催されたフォーラム用の準備稿で、11日に福島市で行われたフクシマアクションプロジェクト学習会でのイヴ・ルノワル氏の講演も、概略、これをもとに行なわれている。

1. はじめに

チェルノブイリの破局的惨事の後には、前例のない甚大な健康被害が続いた。

私が提起したいのは、その起源と制度上の理由の明確化である。

この甚大な健康被害の存在を否認する人たちの聖典とも言うべき、2006年に出た「チェルノブイリフォーラム」報告書の編者たちのうちの何人かが、福島事故後の放射線計測と健康影響予測との担当チームを組織したのだった。また別の«古株»たちは被災地を跋扈し、ベラルーシで破産したはずのエトス=コア方式を適用している。

チェルノブイリでの甚大な被害に光を当てることが、福島後の状況下で進行中の同様の被害に向き合う助けになればと、願う次第である。

2. 1986427日の状況と役者たち

プリピヤチからの退避が始まったのは27日で、爆発から36時間たっていたが、 放射性の霧塊の第一陣がスエーデンのフォルスマルク発電所に到達して、探査装置を作動させるよりは前であった。

1988426日に私はチェルノブイリにいた。その時の診療所長の説明によると、事故に先立つこと数年、アメリカによる«先制»核攻撃が懸念されていた時期に、練り上げられていたシナリオに基いて退避は行なわれた。核戦争を闘う部隊の兵員一人一人の被曝量を1Sv以下に抑えるという積りであったのだ。プリピヤチでの爆発直後の線量は平常の30万倍ほどに当たる、30 mSv/hほどにまで上がっていた。この数字は、事故を起した4号原子炉からほんの数十mの場所で、初日に«清算»作業をした人たちの推定被曝線量から確かめられる。それは3 Sv 以上(125 mSv/h 以上)であった。退避は必然となった。

世界がチェルノブイリ事故を始めて知った時には、プリピヤチは既に町としては死んでいた。

チェルノブイリ後の甚大な健康被害にICRPが果した決定的な役割を述べる前に、まずはこれをご覧いただきたい。

yvesw02195056年に国際連合の外郭で、放射線防護の諸機関がどういう国際的布置にあったかが、ここに示しておいた。この中で中心的な権威の役割を果していたのは、ICRPである。

階層的な図式に当て嵌っていることが、良く分る。

1)研究機関や大学などから発表される論文をUNSCEARが審査する。ここでの篩い落しに残ったものが、放射とその影響に関する«科学»の中身をなす。委員会の報告は国連総会にかけられ、総会はこれを承認して抗い難い権威を与えることになる。

2)この«権威を付された»基礎内容を拠り所として、

電離放射線と放射性物質による被曝に人が曝されるあらゆる部門にわたって、払うべき予防・注意措置

超えてはならない被曝線量の上限値

ICRPが勧告する。

3)これ以外の諸機関は、この勧告に基いて、規則や法的処置を定める。

1962年にICRPは勧告の適用を任務とする第4委員会を創設した。チェルノブイリ事故当時は、設立から1985年まで第4委員会の座長であったアンリ・ジャメが辞任し、替ってUKAEA 出身で、1959年以来委員会V(現在の第5委員会とは別)、次いで第4委員会でジャメの同僚だった、ジョン・ダンスタが座長になって間がなかった。ジャメは主幹委員会の副委員長に昇進して、委員長のアルゼンチン人、ダン・ベニンソンと並ぶことになった。ベニンソンは1962年から1981年までの間、第4委員会の一員だった。ジャメとベニンソンとはそれぞれ、UNSCEARで、ジャメは1964年以来、ベニンソンは1962年以来、自国を代表してもいた。ジャメはピエル・ペルランにバトンタッチする1993年まで、ずっと代表であり続けた。このペルランはICRPの第3委員会に1969年に登用され、その年にUNSCEARにも加わったのだが、第4委員会に在籍した1989年と1993年の間を除くと、1997年までずっと第3委員会の一員であり続けた。公式の図式に描かれているような一方通行の情報の流れは、こうした兼任の実態によって、否定される!

ICRP=UNSCEARという大家族の系図は知っておく価値がある

yvesw03長崎の原爆での« 黒い雨 »の降った地域内でのセシウム137の降下状況と、1986426日のヨーロッパでの降下状況とを突き合わせてみたのがこの図である。

チェルノブイリ事故の重篤性は想像を超えている。分りやすくするために、黒い雨の降った西山地区と同等の汚染になる、ロシアの2つの地区に跨る形で、比較対照の地域を設定してみた。長崎では45 km2 ほどが、最大で 30 kBq/m2程度の汚染である。一方、チェルノブイリでは汚染地域は1 000 000km2以上が、1 500 kBq/m2

を超えるまでの汚染になっている。

チェルノブイリでは、汚染の強い地域が、汚染のずっと少ない地域によって分断されていることに気付く。汚染の度合いのこのような差異は、降雨の役割をはっきり現すものである。しかし当たり前のことだが、雨が多かったか少なかったかにかかわらず、比較的近隣の地域では、より遠方で降雨が多量のセシウム137を地面に染み込ませた地域よりも、ずっと高い密度の放射能の雲が通過したのである。だから、近隣地域の住民たちは、そうした遠方の住民たちよりもずっと多くの放射性ヨウ素を吸引したのだ。ところが公機関に守られた疫学研究が病理学的な効果を説明する際には、土地の汚染線量を基盤にしている。それどころか、汚染地内にある線量の低い地域から、対照集団が取られたりさえしているのである。このような研究の結論を受け入れるわけにはいかない。 « 事故前 – 事故後 » の比較だったらこれよりは良いだろうが。

3. 甚大な危機の状況での、放射線防護への取り組みの2つの流儀

1986428日、クレムリンがチェルノブイリ4号炉の爆発があったことを認めざるをえなくなった後で、いったい何が起ったのか? さらに正確に言えばこうだ。害を既に受けた住民たち、受ける危険に曝されていた住民たち、そして害をこれから受けようとしていた人たちの運命を閉ざしたのは誰なのか?

さまざまな主導的行為の中から、2つを取り上げて比較しよう。ひとつは、ベラルーシの物理学者ヴァシーリ・ネステレンコによるものだが、彼は当時、ベラルーシの首都ミンスクに近いソスニの核研究センターで行われていた、移動式原子炉の構築を目指したPAMIRプロジェクトの責任者だった。もう一方はICRP副総裁であったアンリ・ジャメのもので、彼は委員会勧告の適用の歴史を体現する権威者であった。

yvesw04ネステレンコから始めよう。彼が事故を知ったのは28日で、クレムリンでソ連の閣僚会議(当時の最高執行機関)の軍産委員会に出席して、PAMIR の進捗状況を報告をしていた。現地との電話で得られる情報は混乱していて、19時の飛行機で彼はミンスクに飛んだ。いつもの運転手が空港に待っていたが、クルマには既に測定機器など必要なものが積み込まれていた。この42829日の夜中に、ミンスクから、発電所から40kmほどの、ブラヒンというウクライナ国境にある町まで往復する間に測定された空間ガンマ放射線をまとめたのが;この図である。ブラヒンでの測定値は正常なバックグラウンド値の3000倍ほどにあたる300 μSv/h に達していた。帰りに往きと同じ場所で測定していった数値は、往きよりもいっそう上っていた。ミンスクに戻ると、彼は研究責任者としての地位を通して動かせるだけの機関や人員を動員して、幾つもの緊急手段を取らせた。安定ヨウ素剤の配布、食品放射線量の測定管理、水浴禁止や屋外散策の制限などである。簡単に言えば彼は、原子力の仕事の責任ある地位の者ならば誰でも知っているはずの、放射線防護の基本原則を尊重してことを運ぶようにさせたのである。可能な限り多くの人が、放射線被曝を回避できるよう、一刻の遅れもなくことを進める、それが基本原則第1条である。

428日に、当時、ソ連側の放射線防護責任者であったレオニド・イリン教授と、最初に連絡を取った西側の人物の一人がアンリ・ジャメだ。ジャメにとってUNSCEARソ連代表のイリンは、そこでの同僚と言うより、ま新しいアルターエゴであったと言ってもよい。

56日にジャメは、コペンハーゲンでダン・ベニンソンを座長に開かれた最初の専門家会議に出席した。信頼できる証言によれば、「専門家グループは、雨水の使用を警告し、食品の放射線量を監視するよう勧告したが、住民の退避は提案されなかった」また、「事故後10日めの国際専門家会合は事故評価にも勧告にもたいへん控え目であった」….

では、このもっとも肝要な時点での、彼らの勧告の射程はどのようであったろうか。放射線防護の世界的権威は、物理学者ネステレンコが要求したのと同じようなさまざまな措置を勧告しただろうか。

彼らを裁くには恰好のものとして、内容の一致する2つの証言がある。

まず第1に、64日付ルモンド紙の医学欄がアンリ・ジャメ博士自身を情報源として、チェルノブイリ事故の被害を受けているヨーロッパ諸国の反応の« 協調性を取る » ための公式派遣団の機関を報じている。その中から、

ここでは彼の勧告に関する基本的な部分だけを取り上げる。

…..チェルノブイリ近くの村々の住民たち(約1000人)のうちで、風下にいた人たちは大量の放射性放出物の影響を受けている……。彼等は完璧な臨床検査を受けているし、医学的な監視の下に置かれることになるはずではあるが、こうして被曝したことが、健康上に何らかの結果をもたらす、ということを、今ここで、確信をもって言えるということではまったくない。

反対に、こうして害を受けた場所は、人が再びそこを訪れ、危険なく居住するに先立って、注意深い調査の対象となるべきであろう。….

ロシアの放射線環境学の専門家たちの決定を導くのは一つの«最適化原則»である。……

かなり遠方では、…..実際の放射能汚染が宣告がされうる。……この程度の汚染には……いかなる臨床的結果を伴うこともなく、したがって、何か特別の措置を必要としない」

ヨウ素131に対する子どもたち感受性を強調したUNSCEARの出版物や、甲状腺の被曝量は子どもの場合には1050mSv を超えてはいけないことが特記されている1965年の「ICRP 9 」に照らして、アンリ・ジャメがここに示しているような事態放置策には言葉もない。

ここで、« 臨床的結果» « 最適化原則 » という2つの表現を記憶しておいていただきたい。

ここでソ連に戻って、ヴァシーリ・ネステレンコが取った行動への反応がどうであったかを見ておこう。

429日の夕刻、ネステレンコはベラルーシ閣僚会議中央委員会総裁のミハイル・コヴァレフに面会していた。この委員会だけが、緊急事態宣言や人民強制避難を発令できるのである。ネステレンコが状況と取るべき手段を説明するのと並行して、隣室では保健大臣サフシェンカがレオニド・イリンに電話で、ネステレンコの提案を伝えていた。その前日にジャメ博士とそういう問題を議論済みだったイリンは、こう答えたのである。

「急ぐ必要はない。避難は適切でない」

ネステレンコの要求が適切だったことは、その直後、1986514日にベラルーシ共産党中央委員会にネステレンコが回付した恐るべき数値からも明らかである。

「ブラヒン、ホイニキ、ナロフリアの各地区での1986427日〜55日のガンマ放射のエネルギー水準は、50150Radに逹した模様である。…..甲状腺に吸収された線量の水準は501500Radの間にあるが、これは住民に対して定義されている、…..事故の際の最大値をすら、大幅に上回る。」

53日に、ホメリ州の査察に続いて、ネステレンコは、原発から30km圏とされていた避難区域を100km圏までに拡大するよう要求した。この提案は中央委員会に回付されて、57日の委員会で討議に掛けられた。

ダン・ベニンソンが座長を務めた国際会議の翌日に当たるその日、ヴァシーリ・ネステレンコは中央委員会の集まりから追放されたのだった。

ウクライナ閣僚会議議長のリアシュコも、広範な防護策を取った廉で、モスクワの大幹部たちの前で罵倒を受けている。

ICRP勧告が、レオニド・イリンという仲介者を経て、忠実に実行されたのである。

yvesw05写真は1970年代にICRPの会合の合間に撮られたジャメとベニンソンだ。

4. 国際組織の防護科学者の人脈

続く危機を通じて、それに対処すべき諸機関の最優先目標が、はっきり目に見える。であればこそ、突然でしかも未曾有のチェルノブイリ危機こそは、ICRPUNSCEARによって執行されている権力と、彼らの共同プロジェクトとの本質を、もっとも雄弁に暴露するものとなったのである。

このジャメとかベニンソンとかは、いったい何者であろう。彼らはどこから来たのか。どういう文化に浸って生きてきたのか。彼らの深部にある、何があっても譲れない選択肢は何だろうか。

彼らは防護学者の第3世代に属している。

1世代、パイオニアの世代は、1928727日のストックホルム会議で形成された。「X線とラジウムからの防護のための国際勧告」という最初の勧告が採択された会議である。放射線学者や放射線療法士の健康保持のためのものであった。この世代には、スエーデンの医療物理学者ロルフ・シヴァート(シーベルト1896-1966 )、そして放射線計測の専門家であったアメリカの物理学者ロリストン・テイラ(1902- 2004)という二人の著名人が含まれる 。二人はともに、ICRPの主幹委員会に、初めは委員として、その後は名誉委員として、前者は1964年まで、後者は2004年まで、休止なく座を占め続けた。

協調性と実効性を気にかけていたロリストン・テイラは、彼自身の言葉に従って言うと、グループの扱いやすさを保証するために、メンバーの数が増えないようにした。1947年には、原爆後の情勢の中で、テイラは、科学的な不確かさを一般の人たちの目の晒すと、世論による信頼が揺ぐことを恐れて、被曝限度を巡る討論を公表すべきだとする意見を葬り去っている。

2世代では、ICRPと、そして特にUNSCEARへの、マンハタン計画(アメリカの第2次大戦中の原爆開発)参加者たちのの流入が見られる。広島、長崎の存命者の研究にはオスティン・ブルス、シールズ・ウォレン、ジアキーノ・ファイラ、メリル・アイゼンブド、ジェイムズ・ニール、ジョン・ローリン、マクス・ツェレ、シャルル・デュナム、ポル・ヘンショなどが加わった。この人たちは総体として、1927年に放射線が突然変異を起こすことを発見したハーマン・マラをはじめとする遺伝学者たちの慎重な態度を攻撃した。この人たちにとっては、簡単に言えば、臨床結果が不在であるならば(今のところ発病していなければ)、被曝は無害で、予測できる健康上の影響もないと考えるべきであった。

X線とラジウムとへの秘教的信仰の中で育ち、原子爆弾の力に魅了されていた彼らは、原子力と放射性同位体の適用の中にこそ未来があると信じ込んでいた。ブレーキを掛けるなど、問題外であった。かくして、ハーマン・マラの拠り所ともなっていた、遺伝学者アルフレド・スターティヴェントによって19546月に公に表明された怖れに対して、USAEC の親玉ルイス・ストロスは真っ向から否認する議論を展開したが、その結論はこんな書き出しであった:

「根本的に言って、原子力が広く使われる世界へ人類を適合させていくという問題はたいへん真面目なものであって、だから我々は(遺伝学者一派のように)消滅しそうなほど僅かな確率的可能性について重大性を誇張するような真似はしないのである」

USAEC (米原子力委員会)の生物学と医学の部門の責任者であったオスティン・ブルスは、当時、ICRP委員会IIの一員で、また翌年にはUNSCEARの最初のアメリカ代表の一人にもなったが、「癌研究」誌に載った「科学における新なる感情論」という騒々しい論文の中で、しつこく念を押している。同じような物言いが何度も出るが、例えば、こんな文章だ:

「私は今、遺伝学者ではないが、私は医学校へ行ったし、ヒステリーの特徴的症状の一つは、視野の狭窄である……

ブルスは1946年には、トルーマン大統領に働きかけて広島にABCCを設立させた人々のうちの一人で、前にも挙げたジェイムズ・ニール、ポール・ヘンショウやシールヅ・ウォレンとともにその指導者の一人となった。

この50年代の中頃には、私が「臨床家」と読んでいる人たちが第一線に立ち、未来を準備していた。

3世代は、慎重な姿勢を貫こうとしていた遺伝学者たちがほぼ敗退したところに登場した。遺産相続人の世代である。ダン・ベニンソンとアンリ・ジャメはここに入る。2人はたいへん若くして、この名門家系に入り込んだ。

yvesw06放射性降下物を巡る世間での議論は喧騒を極めていた。原子力のイメージは不透明となった。それが彼らの一番の関心事であった。原子力の未来は、一般の人たちがその危険性をどう考えるか、放射能防護をどう考えるかに、かかっている。彼らにはそれが分っていた。彼らは、原子力への信頼を立て直すことを自らの任務としたのである。この役割に身も心も捧げ、自らの存在を投げうったのだ。

1930年生まれのベニンソンは、1954年にブエノス=アイレスで医学の学士号を取った。彼がその後2年間を過ごしたのはロレンス・リヴァモア研究所という、1940年設立で1941年にマンハタン計画に組み入れられた研究所内の、ドナー研究室(核医学生誕の地と言われている)である。博士号を手に入れ、アルゼンチン原子力委員会の要員となって、ついでにUNSCEARのアルゼンチン代表になっている。その時、彼は26歳であった。 1962にはUNSCEAR代表となり、2004年に亡くなるまで、その地位にあった。

1920年生まれのアンリ・ジャメはメード・インCEA(フランス国立の原子力研究所)の純粋培養品であって、 1951年に防護部門の責任者になっている。2年後にはICRPの新メンバーに指名されている。33歳であった。1958年には、UNSCEARのフランス代表に指名されている。

2人はともに、現在、特に福島で第一線に立っている第4世代の人々の人選に深く関係した。そうした一人が、引退間際とは言え影響力を失わずにいるアベル・フリオ・ゴンサレスだが、彼はベニンソンの直接の後継者で弟子でもある。

図では、こうした大指導者たちの間で、UNSCEARの役職とICRPの役職とを兼任する伝統が見て取れる。言うまでもなく、この人たちは皆、それ以外の数え切れない機関でも専門家とか顧問という形で役職に就いている。 特に国連関係で言えば、IAEAWHOでだ。

放射線防護の国際複合体内での世代間の遺産の引き継ぎに関して、イメージしていただけるようになったことと思う。

5. 198889惨状の実相と、新しい危機

1988年末から翌年頭にかけて、チェルノブイリでは健康状態の悪化が進んだ。子どもたちの具合はますます悪くなった。家畜も惨憺たる有様だった。人々の怒りも増した。ソ連政府も汚染マップの公表を余儀なくされた。ベニンソンとその同僚たちとが、事故以来、あらゆる講演や、また政策決定の場などで主張してきた、影響を最小限に見積った予測は、完全に信用を失墜した。

汚染した場所が豹の斑模様のように散らばった地域で、住民たちは移住を要求した。どうしたら良いのか? 前にも引用した信頼できる証言の続きを読めば、イリンやICRPの指導者たちが、どうやって問題を処理したのかが分かる。

「彼らは3年後にウィーンで彼らは、一生のスパンで計算した、地域住民に対して我慢させられる線量上限について、数値を上げる議論を非公式にしていた。彼らが閾値を定め、それを超える場合は移住させる必要がある、ということは了解された。L.イリンの提案している350 mSvという数値が受け入れられ、数日後には公表された」

この線量はICRPが勧告していた住民の被曝限度の5倍にあたる。ソ連での求心力低下の動きが、チェルノブイリの問題を巡って徹底して加速していった当時の流れの中で、数十万人の人々を危険に晒していることを覆い隠してきた嘘の数々を知って衝撃を受けた世論を前に、この基準を押し付けるには、自分たちはあまりに弱体だと、権力は感じていた。専門家たちが権威であり続けられるのも、正当性があると受け取られている限りでのことである。世論やメディアにとっていちばん目立つところにいるソ連の放射線防護担当者たちの権威は、地に墮ちていた。しかし、さらに多くの人たちを移住させるのは費用が嵩み過ぎるように思われた。何とかして、この新しい上限値を受け入れさせる必要があった。

そこで、WHOが呼び出され、この決定の正当性を人々に納得させることを職務とした、最上級の専門家たちの派遣団の任命を任される。WHOには放射線の専門的な知見などはほとんど皆無だが、しかしICRPという馴染のない名と違って、WHOのもつイメージならば人は安心する。派遣団にはダン・ベニンソン委員長と、第3委員会のピエル・ペルランというICRPのメンバー2人が含まれていた。旗持役は「WHO事務局放射線防護グループ長」というパッとしない役職の、ピータ・ウェイトというカナダ人だった。19897月のことである。

1990415日に私はミンスクでミハイル・ゲマスタイエフという物理学者と出会った。彼はある公開の講演会で、350 mSv についてベニンソンに質問をぶつけた。この基準に異を唱える質問者に向かって、ベニンソンはこう言った。

「あなた方には金がないじゃないですか。ということはつまり、避難はさせられません。だからつまり、問題なんてどこにもないということです」

こうした物言いに、いかがわしいところなどまったくない。1973年にICRPの「出版物22号」で提示され、4年の後に「ICRP勧告」と題された大部の「出版物26号」に包摂された、「最適化原則」の精神と文言を守ったものなのである。

では、勧告適用の哲学の、2つの言葉にについて論じることにしよう。

6. 「できる限り低く」と「最適化原則」

1974417日にアンリ・ジャメ博士は、放射線廃棄物管理の技術的選択肢を査定する省庁連合会議で、講演した。私も会場にいた。その日に、放射線防護の一番の問題は経済性だということが、私にはよく分かった。ジャメは、この図に示した図式を使いながら、発表の全体を、前年に発表していた「最適化原則」の説明に費した。

yvesw07副作用を伴う一つの行為を扱った、ありきたりの経済学的最適化曲線が提示されている。これは本物の « 費用対利益分析 » ではない。本物ならば、« 利益 » の縦軸に、同じ線上の « 被曝 » の縦軸の数字と向き合わせて数字を入れるはずだが、そうではなくて、より良い放射線防護のための付加費用と避け得る被害とが釣り合うように被曝の値を決めようというのである。

ベニンソンの応答をどう解釈すればよいだろうか。

より多くの人たちを避難させるには、多額の出費が必要で、それも猶予なく借入金によって賄う必要があるとされた。あてにできる利益は、3つの理由から、仮想的なものに留まるとされた。第1に、利益は何年、あるいは何十年もの後になってからのごく僅かな健康出費額分に相当するのだとされた。第2に、避け得る支出については、数値化不可能とされた。第3に、支出が避けられたからと言って、それで借入金が返せるわけではない、というようなことであった。

この「最適化原則」はどういう必要に対応しているのか。

as low as… 」の知的轍から抜け出す必要にである! この轍の最新版は、ICRPの「出版物26号」で定式化されている « ALARA (As low as reasonnably achievable合理的に達成可能な限り低く)の原則 » だ。さまざまに形を変える、一連の「as low as… 」は、1954年のICRPの「出版物1号」から既に始まっている。 医療分野で推奨されていた“lowest possible”(できる限り低く) が、ここで“as low as practicable”(実行可能な限り低く)に席を譲り、さらに1959年には、ほとんど同じ意味の “as low as is operationnaly possible”に変わった。難点は明白だ。拘束力のない形だけの規則なのである。1965年に「出版物9号」が明確化を行なった:「線量はすべて、経済的、社会的な影響を考慮に入れた上で、as low as is readily achievable (速やかに達成可能な限り低く)抑えなければならない」ということで、つまりはどういう状態であれ正当化される。「速やかに」とは、つまりは「楽に」ということだ。2001年にはALARAからALARPへの移行が議論された。PPraticable(実行可能)である。これは立ち消えになったらしい。ICRPは“as low as…” の哲学的袋小路に、迷い込んだままだ。

「最適化原則」には、ものごとを数値化さえすれば、どんな批判に対しても予め備えておけるという、知的快適性がまことに備わっている。一例ごと、実情に合わせれば良いのだ。最適化された防護mesuresの計算例は、「出版物37号・第4委員会」(1983)の中に幾つか提示されている。そうしたうちの「放射性産物廃棄に関する最適化の一手法の例」という題名一つで、批判者たちのうちのもっとも困難を厭わない者さえ、口を閉ざすということであろうか、何しろ、そこには計算に使用された(変数だの、機能係数だの、媒介変数だのといった)シンボルの一覧だけでも4ページもあるのだ。

yvesw08「最適化原則」の適用は、1976年にアンリ・ジャメの主導で創設されたCEPN(核の分野での防護査定研究中枢)の商売の中身そのものだ。CEPNのメンバーはたった4社で、フランス原子力局、フランス電力、放射線防護原子力安全研究所、AREVA社である。石綿など、放射線以外の危険分野にも、商売を拡げている。2000年代の初め頃から、ICRPCEPNに従属するようになり、自分たちではできない高度な数学計算はこの組織が頼みである。1979年以来この組織の頭脳である経済学者のジャク・ロシャルが、今ではICRPの副代表であり、彼のチームが、放射能への恐怖をモデル化する理論を携えたティエリ・シュネデルという数学者とともに、また福島エートスにも依りながら、「ICRP福島対話イニシアティブ」なるものを推進している。ジャメはここでも、遺業としてではあれ、新なる戦略的成功を収めた。CEPNICRPに包摂され、逆にICRPCEPN……

放射線防護は科学のような顔をしているが、科学ではない。荒天のただ中での舵切りである。ネステレンコは人々を護るためにできる限りのことをした。ジャメとベニンソンは、彼らの「最適化原則」を実現しようとさえ努めなかった。彼らは結局、原子力産業の将来を保全する目的に沿って、「最適化原則」を適用しただけのことである。

yvesw097. ただただ否認し続けるだけ : 原子力様の仰せの通りに!

「チェルノブイリ・フォーラム」報告書出版に先立ち、UNSCEARIAEAから幾つものコミュニケが出され、19869月のウィーン報告会議での予測と、事故の実際の帰結とが、よく一致していることを強調していた。つまり専門家たちは、自分たちの論文の中ではまったく想定しなかった状況に関して、その帰結を数値化して示す手段を1986年には手にしていたというのである!

疫学的調査結果のこの報告では、健康被害はほとんど存在しないと断言されているのだが、調査結果の中身そのものはそうなってはいない。しかし、こうした裂け目の記述に入り込むことはすまい。至高の権威が現実原則を退けているようなところで、闘いに参入しても無益である。この権威を裁くことが許されている審級などないのだ。

「臨床的結果は皆無…….」と、ICRP副委員長で、世界でもっとも原子力化されている国のUNSCEAR代表であった人物が、19866月初頭に予言しているのである。ベニンソン、イリンその他、ジャメの仲間たちはこの帆船に乗り込み、2つある船首の一方から他方へと絶えず行ったり来たりの乗り移りを続けてきた。目指す岬は50年代以来変わりがない:原子力の発展である。

チェルノブイリによって何千という数の科学論文が書かれることになったが、UNSCEARがその選り分けをした。

今、一瞬だけ、想像してみよう、委員会のただ中で、いとも長い年月、考えを共有し、論文を共著してきた仲間たち知人たちの居並ぶ中で、一大勢力が急に立ち現れて、ICRPの中枢にいる同僚たちのうちでもっとも影響力のある者たちの、チェルノブイリの甚大な健康被害を生み出す過程における責任を問うような仕事を維持していく、というようなことがあるかどうか。そうなれば、ICRP側の船首とUNSCEAR側の船首との間で魚雷を打ち込み合うようなものだろうか…….そして小舟は沈みかけるであろうか。

実際にそんなことがあったと仮定してみよう。国際的な放射線防護は乗組員もろとも沈んでいたことだろう。政治エリートやオピニオンリーダたちが掲げてきた原子力の有用性や無害性への信頼は、決定的に馬鹿にされることになろう。産業発展モデルの支柱が一つ、崩れ落ちることになろう。EPR欧州加圧水型炉)よ、高速増殖炉よ、核融合よ、さようならだ! チェルノブイリどころではない惨事ではないか!

しかし、国際原子力村には、見渡したところゴルバチョフはいないようだ。創業の父たちは、事業の行く末に熟考を払っていた。彼らの創造物はチェルノブイリの試練を乗り超えただけでなく、それを通じていっそう強くなりさえした。福島危機の運営がその証左である。

彼らは劫を背負った。存在し続けるには、一丸となって真実を否認し続ける以外にないのである。「原子力様の仰せの通りに!」

«資料» ICRPの日本人たち


2013年11月現在での、ICRPメンバーとされている全日本人のリスト

■ ICRPでの現職
■ 日本での現職
■ 日本での前職

丹羽太貫(にわ・おおつら)
主委員会(2009〜)
タスクグループ75(幹細胞放射線生物学)
京都大学名誉教授
福島県立医科大学  理事長付特任教授(2012〜)
原子力安全委員
文部科学省 放射線審議会 会長
放射能影響研究所 評議員
バイオメディクス株式会社代表取締役社長(2009〜2012)
放射線医学総合研究所重粒子医科学センター副センター長(2007〜09)
京都大学放射線生物研究センター教授(1997〜2007)
広島大学原爆放射能医学研究所病理学教室教授(1991〜97)

佐々木道也(ささき・みちや)
科学書記局長補佐
電力中央研究所 原子力技術研究所 放射線安全研究センター

伴信彦(ばん・のぶひこ)
第1委員会(放射能の影響)
東京医療保健大学大学院看護学研究科 教授
大分県立看護科学大学
動力炉・核燃料開発事業団(1989〜1993)

遠藤章(えんどう・あきら)
第2委員会(放射線被曝による線量)
タスクグループ4(線量計算)
タスクグループ90(環境線源による被曝の年齢依存当量換算)
日本原子力研究開発機構 原子力基礎工学研究部門 環境・放射線科学ユニット

米倉義晴(よねくら・よしはる)
第3委員会(医療における防護)
タスクグループ87(イオンビーム放射線治療の放射線防護)
放射線医学総合研究所理事長(2006〜2011)
福井大学 高エネルギー医学研究センター 教授(〜2006)

本間俊充(ほんま・としみつ)
第4委員会(ICRP勧告の適用)
タスクグループ93(ICRP文書109&111の改訂)
日本原子力研究開発機構 安全研究センター 研究主席

甲斐倫明(かい・みちあき)
第4委員会(ICRP勧告の適用)
タスクグループ91(放射線防護目的のための低線量&低線量率での放射線リスクの推論)
タスクグループ93(ICRP文書109&111の改訂)
大分県立看護科学大学理事/人間科学講座 環境保健学研究室 教授
日本原子力研究所 環境安全研究部 研究員

酒井一夫(さかい・かずお)
第5委員会(環境防護)
タスクグループ91(放射線防護目的のための低線量&低線量率での放射線リスクの推論)
放射線医学総合研究所 放射線防護研究センター長・人材育成センター長(2006〜)
東京大学大学院 工学系研究科 原子力国際専攻 客員教授
電力中央研究所 低線量放射線研究センター 上席研究員(1999〜2006)

石榑信人(いしぐれ・のぶひと)
タスクグループ4(線量計算)
名古屋大学 医学部保健学科 医療技術学専攻 医用量子科学講座 教授
放射線医学総合研究所 緊急被ばく医療研究センター 線量評価研究部 物理線量研究室長

保田浩志(やすだ・ひろし)
タスクグループ83(宇宙線被曝からの航空乗務員防護)
放射線医学総合研究所 放射線防護研究センター 環境放射線影響グループ

立崎英夫(たつざき・ひでお)
タスクグループ85(現代的放射線腫瘍医学における二次的癌リスク減少のための実践的放射線防護勧告)
放射線医学総合研究所 緊急被ばく医療研究センター 被ばく医療部 障害診断室長

辻井博彦(つじい・ひろひこ)
タスクグループ87(イオンビーム放射線治療の放射線防護)
粒子線がん相談クリニック院長
放射線医学総合研究所 理事/重粒子医科学センター長(2000〜2011)
筑波大学 臨床医学系教授 陽子線医学利用研究センター長(1990〜94)

中村尚司(なかむら・たかし)
タスクグループ87(イオンビーム放射線治療の放射線防護)
東北大学名誉教授
東北大学大学院工学研究科教授(1999〜2003)
東北大学サイクロトロンラジオアイソトープセンター教授(〜1999)
文部科学省放射線審議会会長

佐藤大樹(さとう・だいき)
タスクグループ94(環境線源による被曝の年齢依存当量換算)
日本原子力研究開発機構 原子力基礎工学研究部門

斎藤公明(さいとう・きみあき)
タスクグループ90(環境線源による被曝の年齢依存当量換算)
日本原子力研究開発機構 福島技術本部 上級研究主席

栗原千絵子(くりはら・ちえこ)
タスクグループ94(放射線防護の倫理)
放射線医学総合研究所 分子イメージング研究センター 客員研究員(2007〜) 同主任研究員(2008〜)
科学技術文明研究所(2003〜2007)
臨床評価刊行会/コントローラー委員会(1994〜2003)

Roy E. Shore
タスクグループ91(放射線防護目的のための低線量&低線量率での放射線リスクの推論)
放射線影響研究所

ICRPモデルの起源


この文章は、被曝の危険性に関する欧州委員会(ECRR)の報告書(2010年)の4章2節の前半を、仏語簡略版から訳したものですが、数字が間違っていたりするので、その部分は英語版に戻しました。近日中に英語から訳したものに入れ替えます

1946年より、経験も積み日本で原爆を使用してもいたアメリカ政府は、核科学の微妙な性質をはっきりと理解していた。彼らは核物質を私的に所有することを意図し、この分野を管理する目的で原子力委員会(AEC)を設立した。同時に放射線防護アメリカ国家審議会(NCPR)を作った。ICRPの直接の先行者である。

被曝の限度値を固定するにあたって、NCRPにはAECからの、この限度値で研究や開発が止まらないようにとの、多大な圧力がかかっていたことは、今日では証拠も多量に存在する。

医療従事者たちが、当初は放射線防護の問題で助言を受ける目的て設立した、「X線とラジウムに対する防護の査問委員会」を再建する形で、NCRPは作られたのだった。今や、危険性の源がまた一つ、新に存在することになったのであり、軍や政府、あるいは私企業各社も研究契約を通じて巻き込まれているのだから、放射線に関する危険性の問題で至上の権威として確かな物言いができるだけの、十分な信頼性をもった組織を早急に創設する必要があった。X線への被曝に関して限度値が定められていたが、それを拡大して、兵器開発の研究や原水爆実験への被曝の結果受けることになる、外部ガンマ線に関連した新たな危険性に対応することが、緊急の課題だった。新たに発見され、労働者たちの手で生産され処理され、環境に排出される、多くの種類の放射性同位元素による、内部からくる放射線被曝の限度値もまた同じく、確立する必要があった。

NCRPには8つの下部委員会があって、うち2つが特に重要である。第1委員会は外部被曝の限度値を扱い、委員長はG.Faillaであった。第2委員会は内部被曝の危険性を扱い、委員長はKarl Z. Morganであった。NCRPは外部被曝の許容できる限度値(今日受け入れられている労働者の数値より8倍、一般人の数値の160倍も高い水準である)を1947年から発布してはいたが、完全な報告書は1953年にもなってからようやく公表された。どうしてそうなったかと言えば、モーガンの第2委員会(内部被曝)が、人体の諸器官および細胞への内部被曝の源になりうる、線量と危険性とを決定するにあたって、数値についても方法についても、なかなか合意に至らなかったのだ。その当時は、異なった器官、そしてそれらを構成する細胞があるなかで、どの放射性同位体がどの器官にどう蓄積しどう分布するか、という点についての知識がなかったということで、ある程度は説明できる。NCRPはこうした諸問題に答が出てくるのを待っていた。1951年にNCRPの執行委員会は第2委員会の討論に終止符を打ち、危険性に関する方向付けが必要であるという事実を根拠に、やや強引に、内部線源についての報告が公表されるようにもっていこうとした。

危険性評価体系の理論が封印されたのはこの時代である。この体系を内側から動かす装置の設置には、圧力が作用していた:被曝を定義するための実用的な方法論を大急ぎで練り上げなければならなかったのだ。この理論モデルでは、微量の場合が扱えないし、線量の均一性に差異がある場合も扱うことができない。だから、この評価体系を内部被曝に適用しても、確かなものにはならないのだ。

問題なのは、今日、この理論が未だにそのまま、ICRPの放射線の危険性のモデルの基礎として使われていることだ。このICRPのモデルはNCRPモデルの国際版バージョンとも言うべきもので、NCRP委員長のロリスタン・テイラーがその作成に尽力した。彼は合衆国での核技術の発展とNCRPとの結び付きの明白な証拠から、人々の注意を逸らしたかったのだろうし、放射線の危険性因子に関して、国際的で中立的なある種の合意がある、という装いを付けたかったのでもあろう。この新しい組織は、国際放射線防護委員会(ICRP)と名付けられることになった。

国際放射線防護委員会の創設


ロザリー・バーテル

「チェルノブイリ:信じられない救援の失敗」(2008)より

原子力の平和利用を推進するために、IAEAは国連から労働者たちや一般の人々を防護するために適正な指針を勧告するよう、求めれらました。IAEAが権限を与えられた1957年には、合衆国、イギリス、そしてソ連が大気圏内で核実験を行なっていたことを思い起す必要があります。合衆国が太平洋のビキニ環礁で実験を始めたのは1946年です。ロシアの最初の核実験は1949年です。イギリスがオーストラリアで実験を始めたのは1952年です。

イギリスのロンドンで1952年に開かれた「原子力の生物学的危険性」という経義の出版されている議事録から、容易に見て取れるのですが、マンハッタン計画に加わった物理学者たちは、大気圏内核実験には北半球全体にわたる核の降下物の問題があることを、予見していました。1946年から1950年の間に一連の会議があり、その間にこの物理学者たちは放射線防護の共同体制について合意していました。この物理学者たちは、原子放射線の問題のうち、1)癌による死 と2)生きて産まれた子孫のうちでの、重大な遺伝疾患 のみを勧勘定に入れるべきだと、決めていました。今日でもなお、放射線被曝による「損傷」として通常数え上げられているのはこの2つです。ただし、業界は時には「子宮内での」精神遅滞を含まることがありますが。

多くの人たちの予想に反して、日本での犠牲者たちの疾病の全般にわたる調査は、この1956年の決定では大きな役割を果していません。実際問題として、1950年の日本の国勢調査からは284000人の原爆生存者が特定され、そのうち195000人が当時、広島と長崎にまだ居住していました。ABCCの資料によれば、原爆の爆発の瞬間に爆心から2,5km以内にいた適格者が全員含まれていて、さらに、それ以上遠くにいて被曝した人たちが20%ほど含まれています。この遠くの人たちは年齢、性別、町ごとに一定数ずつ無作為抽出されています。爆発時に2,0km以内にいた人たちとの間に対照ができるようにしたのです。研究者たちは爆心地から10km以遠にいた人たち26000人を「町にいなかった」人として特定することもしました。最初の試験的な線量測定が利用可能になったのはやっと1957年のことです。

…………………………..

この1950年のロンドンの会議では、「標準的な人間」というものについて、細かい議論がされました。その後、核物理学者たちのこの委員会は、医療放射線従事者たちの放射線被曝の防護標準を設定していた「国際放射線協会」という既にあった委員会のところへ出掛けていって、彼らと合体し、「国際放射線防護委員会(ICRP)」を創設するよう求めました。この時以来、物理学者たちは13人からなる委員会の過半数を占めていますが、多くの国々で使われている放射線防護勧告のすべてを、この委員会が作成しています。

ICRPはその後、国際放射線協会との絆は断ち切るのですが、物理学者たち、核国家の医療的規制担当者たち、放射線科医師たち、業務に放射線を使用するその他の人々からなる、メンバーを自己充足する非政府組織(NGO)であると考えられています。ICRPでは、現在のメンバーの誰かによって推薦を受け、執行委員会によって受け入れられた人が「メンバー」になります。職業的専門家の組織がICRPの基幹委員会に人を送り込むことはできません。WHOでさえ不可能です。

放射線防護規準の勧告に直面した時、できたばかりのIAEAはWHOよりもむしろ、ICRPに助言を求めました。主要な放射線災害で、関心事項を不適切に絞り込み、致死性の癌と、生きて産まれた子孫の重大な遺伝疾患とだけを選んでいることを、問題にする人はいないようでした。想像してみてください、セヴェソのダイオキシン大災害で、ボパールのユニオンカーバイドの大災害で、アジアでの津波やカテリナ台風の後で、死者以外は問題にしないなんて、できますか?チェルノブイリの降下物のあった地域での甲状腺癌を取ってみても、こういう制限は明らかに適切性を欠いています。国際放射線防護委員会によれば、甲状腺癌で死亡する人はたった5%ていどだということです。

国際連合のシステムの中でのUNSCEARの権限は、原子力産業の汚染水準と、電離放射線への被曝が環境と健康へもたらす効果とを査定し、報告するというものです。世界中の政府や組織がUNSCEARの見積もりを、放射線の危険度の評価や防護策確立の科学的基礎とし、信頼を置いています。一般的に言って、合衆国を除いて、すべての国が労働者や一般の人々の放射線防護のためのIAEA/ICRPの勧告を受け入れていますが、UNSCEARはそうした勧告が受け入れてよいものかどうかの、チェックになると考えらることができます。

前にも述べたことですが、メトラ博士は1991年にIAEAのためにチェルノブイリの健康調査の責任者でした。その後、ICRPの主幹委員会に指名を受け、同時にUNSCEARの健康影響評価委員会にも指名を受けています。それぞれの機関の権限を考えても、これは甚大な利益相反です。メトラ博士はチェルノブイリの後遺状況調査で、被害を与えたものの中から放射線を除いてしまいました。しかしICRPとUNSCEARという2つの組織での地位を得たのはこうした調査の「成功」より後であって、地位によって成功したのではないではないかと、論じる人もいることでしょう。ご指名は見返り謝礼、という方が当っていそうです。

2つの国連機関でのメトラ博士の地位は、彼の報告書より後なのですから、そうした彼の地位が、彼の発見に影響したというのは明らかに違います。けれども、医学学校の教科書に欠いてある専門職業的情報は大半、そしてまた健康物理学のプログラムも1957年以来ICRPによって作られていて、またメトラ博士が最初に取った学位がコロンビア大学の数学士で、ついで1970年にトマス・ジェファースン大学から医学博士号を取っていることなどが分ると、癌の初期症状を報告できずにいることが明白になるのです。

メトラ博士は、ICRPの潜伏期モデルの下では、明白な癌であっても10年の潜伏期を持たないものは、放射線に関係のあるものの数に入らないということを、しっかり学んだわけです。そういうわけで、チェルノブイリの甲状腺癌は目には入っていたのに、放射線が原因のものとしては報告されませんでした。惨事の5年以内に発症しますから! 原子力産業が、放射線と、人の健康の科学的情報を独占しています。そうした情報が大学を通じて原子炉施設に、病院の放射線科の研究室に、国連組織に、原子力産業の独占のもとに拡散していきます。その先にはさらにずっと深刻な問題があります。通常、人は理論よりも生の事実を信じます! 理論を事実として教え込まれる時、状況はより煩わしいものになります。ICRPは放射線の健康上の効果に関する、作り物の「合意」を形成したのです。

危険なALARA原則


ロジェ・ベルベオク

「放射線防護と原子力法制」(1998年)より

ICRPはたいへん早くから、労働者たち、あるいは一般の人たちが受けている、ないし受けるべき線量を「適正化」する重要性を認めていました。放射線が健康にとって危険であると考えるのならば、線量はもっとも低い水準にまで低下させるべきだと、但し書き無しに望むのが、健康防護の正しい論理のはずです。1950年にICRPは実際に、被曝を「可能な限り低い水準に」まで低下させることを勧告していました。遺憾なことに、委員会はこの「可能な限り」というのがどの程度なことなのか、明確にはしませんでした。物理的に可能な限りなのでしょうか、それとも、経済的に可能な限りなのでしょうか?二律背反は後に解決されることになります。

1977年にICRPは«合理的に達成できる限り低く(As Low As Reasonably Achievable)»、ALARAの原則を導入しました。放射線防護が高くつくからと言って、ある程度の高さの線量を受容させ、人々を癌による死に追いやるのは«合理的»でしょうか? 何人分かの死を避けるために、原子力産業に莫大な支出を余儀なくさせて、その発展を脅かすのは合理的でしょうか? ICRPは、こういう生の言葉使いで問題を提示していませんが、彼らが言いたのは、要は原子力産業を維持しようということで、そうすることで社会に利益があるというのが、大前提になっている一方、それが成り立つ条件を超えてしまえば、社会的に何らかの問題を生じさせることになるかのように言っているのです。

ICRPの論理は、諸個人(労働者も一般の人たちも)の放射線防護の改善に必要な金銭が、社会防衛の別の領域で使用されればより有益で、より多くの人たちを防護することになるのだ、というのならば、正当化されます。単純な議論で、結論も単純です: 原子力事業者が放射線防護を増やさないことによって節約できる金銭は、社会的な防護の予算に注ぎ込まれるわけではありません。その金銭は事業者の会計に入ったままです。

ICRPが«原価/利益»分析に基いて線量水準を定める提案をする時、それは何を意味しているのでしょうか? 何を含意しているのでしょうか? 諸個人を防護するには費用がかかることを意味しているのですし、そこから期待している利益というのは、被曝による死者が最小であるということです。誰にかかる費用でしょう? もちろん、事業者にかかるのです。 誰にとっての利益でしょう? 諸個人のです。この天秤を支えるには、何か第三の勢力が必要なのは疑いありません。最適化を事業者の手に委ねるのならば、結果は始めから分り切っています。この分析は何を含意しているでしょうか? 2つの違った大きさの間に等式を成り立たせるには、それぞれの大きさを共通の単位で測らなければなりません。費用は金銭的な費用の物差で測られます。利益はどうでしょう? 幾人かの人たちの命、あるいは死をどうやって、そしてどういう単位で測ることができるでしょうか? 数学的に分析するのであれば、諸個人の命(あるいは死)が金銭の単位で測られない限り不可能です。人ひとりの命は幾らにつきますか? これこそが、«原価/利益»適正化というシニカルな考え方が論理として含意しているものです。

声明へのこういうアプローチから、«あなたの命は、幾らだとお考えですか?»という類の主観的な判断規準に入り込まずに生命を見積るための、«科学的»な活動が一山、導き出されるわけです。生命と死を扱う技術者階層の飯の種となる一方で、専門家の大会も開かせることになる、猥褻な研究です。この研究は«人=シーベルトの金銭的費用»という名であり、そこではシーベルトが癌その他諸々の«傷害»を表象しています。

この主題で書かれものは山のようにあるわけで、私たちの社会の合理的思考の倒錯が、どこまで達しているかを示しています。

ICRP


ロジェ・ベルベオク

「放射線防護の神話」(1990年11月)より

この委員会は1928年に放射線学国際会議の議論を受けて創設された。放射線の使用がどんどん拡大していく中で、放射線専門家の間に、悲惨極まりない事態が拡がっていた。不注意な仕事のもたらす危険を警告するのは急務だった。「線量の限度値」と題する、ICRPの最初の勧告は、1934年に発表されている。年間、43レムを超えないように、というものだった。この限度値は、極端に高いものに思える。公式に許容されている現行の値は5レムで、その10倍に近いが、この5レムでさえ、今日明かになっている発癌の危険度を考えれば、既に高すぎる値である。

1934年に勧告された線量によって、火傷や放射線皮膚炎といった、短時日で発症する劇的な急性症状は避けられる。けれども;10年間この線量に曝された状態で仕事を続ければ、かなり高い確率で致死性の癌になる。しかしこの時代には、長期的な効果に専門家たちは不安を抱いていなかったのだ。

創設以来ICRPは、委員によって推薦された人が委員になる、という制度になっていたる。メンバー選択の規準は能力のみによるのが原則だ。メンバーはメンバー自身の代表であり、他の何者に対しても責任を負っていない。こうした原則は、政治的経済的権力からの独立の保証だと説明されている。たいへんに強度の倫理的責任の意識をもって、諸個人を防護することのみが関心事だということだ。

各国政府の公衆保健責任者たちや、放射線防護の専門家たちは、しばしばICRPを引き合いに出して、自分たちの考えを正当化しようとする。けれども、この委員会のメンバーたちが普段の仕事で何をしているか、あるいは、彼らの雇い主の名とかが引き合いに出されるいことはまずない。例として、ICRPのフランス人メンバーは誰と誰であり、彼らが国では誰に雇われているのかを、ここに書き出しておこう:

ジャメ: 原子力委員会、現在は現役ではなく、原子力委員会本部付の技術顧問である。1953年以来のICRPメンバー
ラフュマ: 原子力委員会
パルマンティエ: 原子力委員会
ネノ: 原子力委員会

このリストに、あと2人、原子力業界からは「独立」している人物を付け加えなければならない。私たちの心の健康を何が何でも防護しようというピエル・ペルラン教授と、その同僚で論文共著者のJ.P.モロニである。1986年にこの2人はチェルノブイリの放射能の雲が国境を超えてフランスに入ることを禁止したが、この心の健康の«専門職業人»たちは、私たちが有害な不安に陥るのを避けようとでもしたのであろう。

一般的に言って、ICRPのメンバーの大半は放射線、原子力産業かあるいは放射線療法に関係した専門の職業に就いていてる。フランスでは、状況がぐっと漫画的になっているが。

フランスの原子力委員会は、ジャメを通じて1981年以来、ICRP副総裁の座を握っていて、委員会の諸決定に圧力を行使できている。現在ICRPの総裁をしているベニンソンはアルゼンチンの核プログラムの責任者の一人である。

ICRPは2年に1度総会を開き、放射線防護の考え方を更新して声明を発表する。1987年の集りはコモ(イタリア北部)で開かれた。この機会に、イギリスの地球の友(FoE)の提案によるキャンペーンが展開された(フランスの地球の友(AdT)は加わっていない)。独立した立場の科学者たちはそうして、許容限度線量を、近年の疫学研究の成果に基いて、低くするようにと要求した。GSIEN(原子力情報のための科学者連合:フランスの団体)もこのキャンペーンに加わった。私たちの呼び掛けは、フランスの科学者の間では66筆の署名しか集めることができなかったし、マスコミにはまったく取り上げられなかった。私たちのフランスでは、原子力産業がこれほど巨大なものに発展しているのに、放射線に対する健康の防護は、肝要な争点とは考えられていないのだ。