危険なALARA原則


ロジェ・ベルベオク

「放射線防護と原子力法制」(1998年)より

ICRPはたいへん早くから、労働者たち、あるいは一般の人たちが受けている、ないし受けるべき線量を「適正化」する重要性を認めていました。放射線が健康にとって危険であると考えるのならば、線量はもっとも低い水準にまで低下させるべきだと、但し書き無しに望むのが、健康防護の正しい論理のはずです。1950年にICRPは実際に、被曝を「可能な限り低い水準に」まで低下させることを勧告していました。遺憾なことに、委員会はこの「可能な限り」というのがどの程度なことなのか、明確にはしませんでした。物理的に可能な限りなのでしょうか、それとも、経済的に可能な限りなのでしょうか?二律背反は後に解決されることになります。

1977年にICRPは«合理的に達成できる限り低く(As Low As Reasonably Achievable)»、ALARAの原則を導入しました。放射線防護が高くつくからと言って、ある程度の高さの線量を受容させ、人々を癌による死に追いやるのは«合理的»でしょうか? 何人分かの死を避けるために、原子力産業に莫大な支出を余儀なくさせて、その発展を脅かすのは合理的でしょうか? ICRPは、こういう生の言葉使いで問題を提示していませんが、彼らが言いたのは、要は原子力産業を維持しようということで、そうすることで社会に利益があるというのが、大前提になっている一方、それが成り立つ条件を超えてしまえば、社会的に何らかの問題を生じさせることになるかのように言っているのです。

ICRPの論理は、諸個人(労働者も一般の人たちも)の放射線防護の改善に必要な金銭が、社会防衛の別の領域で使用されればより有益で、より多くの人たちを防護することになるのだ、というのならば、正当化されます。単純な議論で、結論も単純です: 原子力事業者が放射線防護を増やさないことによって節約できる金銭は、社会的な防護の予算に注ぎ込まれるわけではありません。その金銭は事業者の会計に入ったままです。

ICRPが«原価/利益»分析に基いて線量水準を定める提案をする時、それは何を意味しているのでしょうか? 何を含意しているのでしょうか? 諸個人を防護するには費用がかかることを意味しているのですし、そこから期待している利益というのは、被曝による死者が最小であるということです。誰にかかる費用でしょう? もちろん、事業者にかかるのです。 誰にとっての利益でしょう? 諸個人のです。この天秤を支えるには、何か第三の勢力が必要なのは疑いありません。最適化を事業者の手に委ねるのならば、結果は始めから分り切っています。この分析は何を含意しているでしょうか? 2つの違った大きさの間に等式を成り立たせるには、それぞれの大きさを共通の単位で測らなければなりません。費用は金銭的な費用の物差で測られます。利益はどうでしょう? 幾人かの人たちの命、あるいは死をどうやって、そしてどういう単位で測ることができるでしょうか? 数学的に分析するのであれば、諸個人の命(あるいは死)が金銭の単位で測られない限り不可能です。人ひとりの命は幾らにつきますか? これこそが、«原価/利益»適正化というシニカルな考え方が論理として含意しているものです。

声明へのこういうアプローチから、«あなたの命は、幾らだとお考えですか?»という類の主観的な判断規準に入り込まずに生命を見積るための、«科学的»な活動が一山、導き出されるわけです。生命と死を扱う技術者階層の飯の種となる一方で、専門家の大会も開かせることになる、猥褻な研究です。この研究は«人=シーベルトの金銭的費用»という名であり、そこではシーベルトが癌その他諸々の«傷害»を表象しています。

この主題で書かれものは山のようにあるわけで、私たちの社会の合理的思考の倒錯が、どこまで達しているかを示しています。