ICRPモデルの起源


この文章は、被曝の危険性に関する欧州委員会(ECRR)の報告書(2010年)の4章2節の前半を、仏語簡略版から訳したものですが、数字が間違っていたりするので、その部分は英語版に戻しました。近日中に英語から訳したものに入れ替えます

1946年より、経験も積み日本で原爆を使用してもいたアメリカ政府は、核科学の微妙な性質をはっきりと理解していた。彼らは核物質を私的に所有することを意図し、この分野を管理する目的で原子力委員会(AEC)を設立した。同時に放射線防護アメリカ国家審議会(NCPR)を作った。ICRPの直接の先行者である。

被曝の限度値を固定するにあたって、NCRPにはAECからの、この限度値で研究や開発が止まらないようにとの、多大な圧力がかかっていたことは、今日では証拠も多量に存在する。

医療従事者たちが、当初は放射線防護の問題で助言を受ける目的て設立した、「X線とラジウムに対する防護の査問委員会」を再建する形で、NCRPは作られたのだった。今や、危険性の源がまた一つ、新に存在することになったのであり、軍や政府、あるいは私企業各社も研究契約を通じて巻き込まれているのだから、放射線に関する危険性の問題で至上の権威として確かな物言いができるだけの、十分な信頼性をもった組織を早急に創設する必要があった。X線への被曝に関して限度値が定められていたが、それを拡大して、兵器開発の研究や原水爆実験への被曝の結果受けることになる、外部ガンマ線に関連した新たな危険性に対応することが、緊急の課題だった。新たに発見され、労働者たちの手で生産され処理され、環境に排出される、多くの種類の放射性同位元素による、内部からくる放射線被曝の限度値もまた同じく、確立する必要があった。

NCRPには8つの下部委員会があって、うち2つが特に重要である。第1委員会は外部被曝の限度値を扱い、委員長はG.Faillaであった。第2委員会は内部被曝の危険性を扱い、委員長はKarl Z. Morganであった。NCRPは外部被曝の許容できる限度値(今日受け入れられている労働者の数値より8倍、一般人の数値の160倍も高い水準である)を1947年から発布してはいたが、完全な報告書は1953年にもなってからようやく公表された。どうしてそうなったかと言えば、モーガンの第2委員会(内部被曝)が、人体の諸器官および細胞への内部被曝の源になりうる、線量と危険性とを決定するにあたって、数値についても方法についても、なかなか合意に至らなかったのだ。その当時は、異なった器官、そしてそれらを構成する細胞があるなかで、どの放射性同位体がどの器官にどう蓄積しどう分布するか、という点についての知識がなかったということで、ある程度は説明できる。NCRPはこうした諸問題に答が出てくるのを待っていた。1951年にNCRPの執行委員会は第2委員会の討論に終止符を打ち、危険性に関する方向付けが必要であるという事実を根拠に、やや強引に、内部線源についての報告が公表されるようにもっていこうとした。

危険性評価体系の理論が封印されたのはこの時代である。この体系を内側から動かす装置の設置には、圧力が作用していた:被曝を定義するための実用的な方法論を大急ぎで練り上げなければならなかったのだ。この理論モデルでは、微量の場合が扱えないし、線量の均一性に差異がある場合も扱うことができない。だから、この評価体系を内部被曝に適用しても、確かなものにはならないのだ。

問題なのは、今日、この理論が未だにそのまま、ICRPの放射線の危険性のモデルの基礎として使われていることだ。このICRPのモデルはNCRPモデルの国際版バージョンとも言うべきもので、NCRP委員長のロリスタン・テイラーがその作成に尽力した。彼は合衆国での核技術の発展とNCRPとの結び付きの明白な証拠から、人々の注意を逸らしたかったのだろうし、放射線の危険性因子に関して、国際的で中立的なある種の合意がある、という装いを付けたかったのでもあろう。この新しい組織は、国際放射線防護委員会(ICRP)と名付けられることになった。