震災、爆発、避難、そして活動へ


大賀あや子

2011年4月24日、芝公園にて

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この3月26日が福島原発、第一原発1号機40周年にあたる日でありまして、私たち、福島の市民活動をしているグループで、延長運転をしても、もう間もなく段々、廃炉の時期を迎える、寿命がくるということで、去年の秋から「ハイロアクション」という活動を始めた時には、今、原発に賛成の人も反対の人も一緒に、廃炉になっていく原発のことを、考えましょう、廃棄物のことを考えましょう、っていうふうにして、準備をしていました。第一原発も第二原発も放射性廃棄物が残り、原発が廃炉になっていくのを、まあ、一生できる限り、自分でかかわれることは市民として声を挙げていくっていう活動をしていくんだなあー、なんて思っていたところでした。

25年前、チェルノブイリの放射能が日本まで来て、当時、私自身、妹が小さくてとっても心配でしたので、本当に、こう、妹とか、自分より若い人たちを放射能の被害に逢わせてはいけないっていう思いで、ずっと活動していましたので、原子力防災っていうことも、こう色々、こう自分も学んで、常にクルマの中にマスクとか合羽とか何人分もつけて歩ってましたけど、本当にこういざっていう時にどうしたらいいかなんて、あんまり人にお伝えする活動ってできてなくて、そして、3月11日が来てしまいました。

もの凄い揺れの地震で、まずはこう、津波の注意がこう、アナウンスされて、全部、停電で、町の防災無線以外、何の情報もなくて、ラジオでやっと緊急停止したっていう情報が入ったぐらい、っていう中で、余震のもの凄い恐怖とかある中で、近所の人と声を掛け合って、もう地震の対策を、こう地震の被害の対策をしているっていう、あの日の午後でした。

そして、やっと繋がった携帯で、福島市にいた友人から、非常ディーゼル全部止まったっていう情報がちょっと入ったんですけど、えらってもっと詳しく情報の出所とか聞く前に、切れてしまって、それからもう、その後ずっと携帯は繋がりませんでしたので、私は地元に16年間暮して、お隣りのうちはお一人原発で働いてる、そのお隣りのうちは二人働いてる、とか分ってる中で、余りにも不確かな情報を誰にも伝えられないで、もうちょっと確かめてから逃げた方がいいかもしれないって、こう、やんわり言おうかなって言って、うちの家族だけでクルマでこう、電波の通じるところに向かって走り出してしまいました。

一回、電源車ともすれ違ってしまったりして、あれはデマでなくて本当に電源車がいるんだ、なんて思って、そして3キロ圏避難ていう情報が入って、ラジオでやっと入って、もうその時は引き返して近所の人を誘っては、本当にパンクで人に迷惑かけるんじゃないかっていう中で、まったく隠すんじゃなくて、もう避難、少しは始めたっていうことで、そこに希望を繋いで、もう、これ以上、こう渋滞しないように前に進むしかないっていうふうにして、11日の夜、いわきまで移動してしまいました。

もうそれから一日二日は大熊町とか双葉郡がほぼ一日ぐらいで避難できたっていうのをラジオで、テレビラジオで見ながら、本当に一足先に来てしまったっていう罪悪感でもの凄く自分、個人的には辛かったです。もうそれが、全然、放射能止まらない、もうドンドン爆発とかして、毎日毎日、状況が悪くなって、もう一日二日で逃げられた双葉郡の人はかえって運が良かったぐらいになって、20から30キロで屋内退避でずっと宙ブラリンにされた人々、それから30キロより外でも、汚染がひどい地域になってしまった人々が、本当にこう、ちゃんと避難させられず、っていうこう、ますます混乱していく、もう避難所に入った人たちが本当にひどい状況が続くっていうことを、こうニュースやメールで色々、連絡取り合ってる仲間とかから、情報を得て、本当にもう、ますます辛い、そして子どもを連れて県外に避難したメンバーと一緒に、廃炉アクションの活動を続けまして、緊急声明を発表したり、色々、福島県内に残ったメンバーの色んな活動を一緒にサポートしていったり、そういうことをもうひたすら、やっているという、その後の毎日です。

東京に、一週間で東京に移動してきたりしまして、東京で色んな方とまた出会って、そういう活動、色んな方と進めております。福島にいるメンバーと、東京の有志の方々で、まず福島市内に新聞折り込みチラシを入れるっていうプロジェクトも、進めております。

本当に皆さん、ご存知のようにマスコミの情報、実際の情報っていうのが偏っていて、正しい・・・・マスクをするとかいうのから始まった防護対策が、こう、理解されてないっていうことがあります。そのために分りやすいチラシを至急、作成して伝えていこうっていうプロジェクトです。ちょっと今日、具体的に、その爲のカンパの募集っていうことがうまくできないんですけれども、今後、その呼び掛けに逢いましたら、ぜひ、ご協力をお願いしたいと思います。ハイロアクションというホームページ行ける方は、そこにドンドン色々な情報を載せていますので、どうぞご覧ください。

どうぞ福島の人たちに思いを寄せてください


大塚愛

「100万人アクションinヒロシマ」(2011年4月24日、広島中央公園)より

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今日は、大塚愛です。私は3月11日まで福島県双葉郡川内村の住人でした。今、30キロ圏内の丸の中にスッポリ入るところです、川内村は。12年前、1999年から自給自足の生活がしたいと思いまして、選んだ農場が偶々、福島県でした。とてもそこに惹かれたので、岡山から研修に行きました。そしてその後、東北の美しい自然が気に入って、そのままそこに住みつくことになりました。

住みついた場所は電気も電話も通じていない、もちろんガスも水道も通ってない山の中でした。そこにまず自分で小さな小屋を作り、田圃や畑でお米や野菜を育てて、暮し始めました。その後で村の大工さんと知り合って、大工になりたいという思いを持っていたので、4年間、大工修行をしながら田圃や畑を作るという暮しをしていました。

その後で横浜の設計士をしていた男と知り合って、今度は二人で大工を卒業した後で、自分たちで20坪ぐらいの土壁の家を作りました。新しく作った家には夫が電気を欲しいと言ってソーラー発電を取り入れました。電線が来ていないところなので、ここと同じシステムです。

畑にパネルを置いて、そこからできた電気をバッテリーに蓄めて、で、そこのバッテリーに入っている分だけを使いながら生活する、だから曇り、雨が続く時はちょっと電気を抑えながら、暮すという、お天気に合わせたような暮しをしてました。

そこはとても自然の美しいところで、場所が気に入って住みだしたんですけども、住んですぐ、原発が20kmのところにあると気付きました。そして、チェルノブイリで起ったことを本で読んで、コトの大きさということが分って、そこに住みながら自分にできる行動を取っていました。

そこの川内村は«原発城下町»と言われていまして、経済を…原発関連の仕事に就いている人が、沢山いました。村としても、助成金を沢山もらってました。その中で、「原発が危いよ!」って声を挙げることはタブーのような、ちょっと重い空気を感じていました。

それでも村で住む人たちは肌で原発が危いということを知ってました。なぜなら、原発に働きに行った人が病気で亡くなるからです。私と同じ部落に住んでたおじいちゃん、おばあちゃんには、大事な一人息子がいました。その息子さんは若い時に亡くなりました。彼も仕事は原発関連の仕事でした。

また2年ほど前、村で人一倍元気な、村造りに本当に貢献してたいいおじさんがいたんですけども、その人があっと言う間に急病で亡くなりました。その方も仕事の一部で原発関連の下請けの仕事をしてました。

そんな話を幾つも聞きながら、住んできました。村の人たちは危いって気付いてたけども…そうですね、「要らない!」と言い切れない状況にありました。そんな中で私は、もし原発で働いてる人が、同じ電気を造る仕事だったらば、ソーラーパネルを作る工場だったらどんなにいいだろうか、燃料電池やリチウムイオン電池とか、そんな新しい自然エネルギーの工場だったらどんなにいいだろう、同じ電気を作る仕事で。そう思いました。思っていました。

そんな中、3月11日、地震が起り、今まで心配していたことが本当に起ってしまいました。地震は震度6強だったので、家は随分揺れて…揺れたんですけれど私たちが建てた家はうまく揺れてくれる家だったせいか、あまり被害がありませんでした。そして、割れた物を片付けたぐらいで、後は、元々ライフラインのないところですから、停電することもなく、自分たちで掘った井戸から水を汲み上げて、五右衛門風呂を薪で沸かし、薪をくべてご飯を作り、いつもの通り夕方、生活を再開…始めました。

そこまでが、私が川内村で暮していた時間でした。暗くなった頃に、まず冷却水ストップのニュースが、ニュースの中でほんのちょっとです。凄く大きなことなのに、ちょっとだけニュースで聞こえました。何か起ってるんだと思いました。それから、1〜2時間後、3km圏内避難指示というニュースが入ってきて、夫と一緒に、何が起るか分らないから、少し離れたところまで行って寝ようと言って、パジャマを着せた子どもを…5歳と1歳の子どもがいるんですが…子どもをクルマの後ろに布団を敷いて寝せて、取り敢えずの荷物…取り敢えず、取り敢えずって自分に言い聞かせながら、家を出ました。

そして40km離れたとこまで行って一晩明かし、次の日は100km離れた会津のへんまで行って、様子を見てましたが、一向に収まる気配はなく、水素爆発の手前の頃でしたが、私はその時、後ろ髪が引かれて、自分が住んでた場所だけはきっと大丈夫って、避難を決められなかったんですね。

でも夫は小さい子もいるんだから、絶対、川内には帰れないから、離れようって言うんですね。頭では分ってるんです。けども心と体が動かないんですね。突然、裁ち切られて、自分の家から出てきて。

暫くボオーッと会津若松の町で過した後、ある時に「そうか、私が住んでたあそこにも、放射能、来ちゃったんだ」って認めた瞬間があって、とても悲しくって、それから、取り敢えず、暫く滞在できる岡山の実家に帰ろうと決めて、クルマで新潟を通って、3月13日に岡山に着きました。

今、私が住んでいた川内村は全村避難で、村の人たちはほとんど牛を飼っている人や鳥を飼っている人はどうしても離れられなくって、少しは残ってるんですけど、今、川内村は空っぽです。

働き者の大工の親方も、春が来て種を播きたいお百姓さんたちも、狭い避難所やビジネスホテルでこの春を迎えています。

今日、広島の町にバスに乗って入った時に、「ああそうか」って気が付いて、ここは原爆が落ちた時に、火傷して亡くなった人たちは、私はもう、後に生まれて話を聞いたから、その人たちを被爆者としてしか認識してなかったけど、8月6日のその日まで、普通にそこに生活していた人なんだっていう事実に気が付きました。

今、福島県で被災している人たちも、当たり前のように自分の場所で細やかな幸せな日常を送っていた人たちが、自分たちの土地と生活を離れています。

またそれは、放射能は眼に見えません。一見、自分が住んでいた場所は何も風景が変わっていません。少しだけ屋根は落ちてたりするんですけども、変わってません。その事実を認識することの難しさというのも感じています。

人はお金が無くっても土と水と空気さえあれば生きていけます。どんなに札束があったって、人はそれだけで生きていけません。私たちの命を支えるものを、この大地と水と空気です。その一番大切なものを福島県の人たちは奪われてしまいました。

これから5年、10年、ずっと長い間、どうぞ福島の人たちに思いを寄せて、関心を持って、そして愛を送ってあげてください。

それから、この教訓から、エネルギーシフト…この教訓をエネルギーシフトへの、明いエナルギーに変えていけるように、人が繋って…繋がることからしか、力は生まれないと思います。皆で繋って変えていけたらいいなと思っています。

ハイロアクションが去年、始まって、私はそのハイロアクション…廃炉を目指しながら、それぞれが色んなことをやっていこうというのが始まって、私は、じゃあ、何をしようかって思った時に、イマジン、ジョン・レノンのイマジンっていう曲のフラがあるっていうことを知りました。私は「あ、これをやりたい!」と思って、「アロハで廃炉」っていう名前を付けて、去年、福島の仲間たちと練習し始めていました。後程、そのイマジンを踊らせていただきたいと思います。

その前に今日、下関から、素敵なフラシスター、ママさんたちが来られています。後でイマジンも一緒に踊ってもらいますが、その前に、「故郷」のフラを踊っていただきます。どうぞ、福島の地に愛を送りながら、観ていただけたらと思います。

1日2日、泣き通しでした。


大賀あや子

2011年4月14日、福島原発の廃炉を求める署名提出後の記者会見(議員会館)

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私は11日の地震のあった日にまったく停電してましたから、もう大熊町の人たちは誰一人分っていなかったと、テレビ見てなくて分ってなかったと思いますが、実は5時、6時、夕方にディーゼル全部停まったってことで、東京で電気通じてれば、異常事態が分ってましたよね。

それを偶々、携帯電話で私に言ってきた友人がいまして、あと、メールで東井さんとか詳しいNPOの方が、相当危い可能性があるから離れた方が良いのじゃないかと言ってるよって…ただ;そこで電波、切れてしまいまして、ちょっと私自身、ただディーゼル停またっていうだけでは、ちょっとそういう周りじゅう…東京電力に遠慮してお金もらっている人いっぱいいるところで、余りにも不確かな情報の段階で、隣の人が2歳の子がいて心配でも、ちょっと言えなくて、もうちょっと携帯電話通じる所に行って、信頼できる人にいい情報聴いて、もうちょっと分ってから隣の人誘って、まだ放射能漏れてなくても、かなり危いっていうことがはっきり分ったから念のためにお子さんだけ、お子さんと何人かだけ、避難してみませんか、って誘おうかと思ったんですけど、私と夫で電波を求めてクルマで出発しましたら、海の方はさっき言ってたように、大熊を通る高台なので問題、少なかったんですけれど、富岡町は結構低い所もあって、津波の影響だと思いますけれど、国道6号ね、国道に行く途中がもう通行止めになってて、山沿いの県道がもう段差だらけで、いつパンクするか分んない状況で走って...

何とか情報を得なくちゃって言って進んでって進んでって、夜9時半に3km圏避難、っていうような情報を始めて聴いたっていう、私の一日目の直接体験だったんですね。

ーー3月11日の夜の話ですね?

そうですね。

ーー津波とか実際には体験はされてない?

はい、大熊町はほとんど、海岸べりに住んでる人は少ないですから、地震で部分損壊した建物はいっぱい見ましたけれども、で、灯油タンクが倒れて町中、灯油臭かったり、もうテンヤワンヤ、もちろん断水、停電で、ああ、これから暗くなるからどうやって今夜過ごそうね、っていう単なる地震対応のドタバタした町の中だったんですね。

ーー凄い激しい揺れを体験されたんですか?

もの凄かったですね。それで私は危険性を充分知っておりますから、東電に対しても毎月ずっと交渉、参加してましたから、この凄い揺れ方が続いて、本当に原発の配管、どうなってるんだろう、っていうことで凄い恐怖でしたけど、何も分らない、もう…晴れてて、余震以外は平穏な感じで、あの、1時間半くらいで全部、無事に緊急停止しましたっていうことはあったので、でもちゃんと冷えるかな、心配だよねって、言いながら、そんなこと周りの人に、余計な情報、何も確かでない状況で言えないっていう感じで….

あ、でも雪降ってくるし、合羽着といたら、もう今日は家の中に泊まれないから、胡麻化しながら周り近所の人に言ったりして…

それで、その9時半にラジオで始めて聞こえたんですけれど、本当に良くその危険性を知っている私が、もうクルマの中にこの16年ずっと、もしも避難する時のために、乾パンとかマスクとか何人分も用意して、特にお子さん用とかも持って、どなたかに分けてあげられる時あったらって、用意してあった私でも、もう揺れで凄いパニックになって、何かこう、安心する方の情報というか…自分の中で色々な想定があったら、取ろうとして、ああ、3km避難てこと隠さないでそうやってくれているから、何とか上手く避難できるかなって思っちゃって、まああと、事実上、引き返せばパンクして人に迷惑かけるリスクがあるっていうことで、引き返さないまま私と夫で南に向って走り続けてしまいまして、次の日に朝、起きたらぜんぜん前の日よりも、もっと事故が進んでいて、あの…10kmに拡がった…拡がったって5時半に言っているのに、7時、8時のニュースでまだ、避難法とか、避難の経路は協議中とか、双葉だったですけど、そんな話も聞こえたり、「何やってんの!」って言いながら、本当に私、何で引き返して隣の子たちにもっと誘ってあげなかったんだろうと思って、本当に1日2日、そのために泣き通しでした。

テレビに見ちゃ泣きっていう感じだったんです。

で、私自身は親戚がいる土地の方に避難したんですけど、でもそうやって大熊町の人に、自分は何時間か…12時間ぐらいですかね、早く出てきてしまって、もの凄い罪悪感で泣いてたのは最初の1週間で、もうその後は、無事、避難できた10km、20kmの人より、その周りで被曝して大変な混乱、もう、状況にあるってことの方で、もう、それからはずっとそっちの方のことで…心配し、色々、できることを取り組んでっていう日々です。

そして今、もう5週間めくらいですかね、なっております。

本当に判断甘くて、ディーゼル全部停まったっていうくらいじゃあ、何か上手く…想像できなくって、津波、全部被ったとかいうこと分んないから、偶々揺れてディーゼル全部、停まったか、みたいな…だいたい、去年とかでもしょっちゅうディーゼルのトラブルとかもありましたけど、まあ、復旧して間にあいましたってこと何回もやってますから、「ああ、上手く復旧するかな、全部」っていうのは何かのガセで間違いかなって、去年ツイッターで玄海の方でデマ情報流しちゃった経験もあったから…

う〜ん何かそんなこともあって、うちの犬を置いてきちゃったんですよね、はい。

汝の敵を知れ:国連の機能のし方


キース・ベイヴァスタク

IPPNWチェルノブイリ25周年集会(ベルリン、2011年4月11日)での講演に使用されたスライド

国際連合のある重要な特徴

関連組織や機構を傘下とするための「武器」が2つある:
1. 安全保障理事会(IAEAはここに入る)
2. 経済社会理事会(WHOはここに入る)

前者の傘下の組織や機構は、後者の傘下の組織や機構よりも、強い影響力を持つ

国連の組織や機構は、加盟国によって所有されている:加盟国があなたの金(税金)で組織や機構に支払いをしているのだ

国連は自身を一つの家族と見なしていて、組織や機構の各々は、この家族への忠誠を自覚している

組織や機構の責任領域に重なりのある時には常に、双務的な合意を取り交す; WHOでは、合意文書は«基本文献»と呼ばれているものの中に入っているーーほとんど聖典だ。

そこで、IAEAとWHOとの間には合意文書が存在する。そこには原子力に関するただの議論以上のものがある。WHOにとってはたいへん重大な要素がいくつもある。

様々な問題のある領域の中でも、原子力こそはもっとも重要な領域だ。どういう問題があるのか、注意深く、かつ精確に分析することが重要だ

WHOには公衆の健康防護し、保健の質を確保する権限があるーーWHOの「万人に健康を」政策:

IAEAには原子力の平和利用推進する任務があるため、核技術が安全な使用を確保する権限がある:

放射線が疾病の診断や治療に有力な道具である限りでは、2つの組織は協調し、相互に支援しながら、働いていけるように見える

核技術が«原子力»であるところから、問題が生じるのだ。

2つの組織の協働には明らかに利点がある:

低開発国に提供された放射線治療装置(charged particle generators)を例に取ろう: 装置の扱い者と患者とを、誰が後見するのか? 装置が誤用されていないか、誰がチェックするのか? 放射線測定の専門技能は基本的であるーー誰がそれを提供するべきかーーIAEAかWHOか?

同じく低開発国での、治療診断用の小さな放射線源を例に取ろう: 正しい保管、使用、余分な線源の処置を誰が指導するのか? ーー医学目的のものには違いないとは言え、WHOだけの責任分野になるのだろうか?

こういう領域こそがIAEAの任務ーーIAEAが推進する技術の安全な使用、それによってWHOの任務も拡充できるのが否定できないーーWHOには専門技能が欠けている領域

さて、原子力である:

IAEAは、不誠実にも、彼らは原子力の推進などしていない、求めに応じて援助をするだけだ、原子力の使用が、武器製造技術に転用されないよう監督するのだ、と主張する。後の方の論点は、IAEAが安全保障理事会という国連の武器の傘下になっている理由

不誠実に。IAEAで仕事をしようというような連中は始めから核推進派で、はっきり書いてあろうが無かろうが、組織の観点に隅から隅までバイアスを掛けるのは避けようがない

ここで少しばかり寄り道をして、脳について話をしよう

人類の進化の仕方によってこうなったのだが、脳は«記憶»を機能よりもむしろ、構造に即して扱っている。脳はソフトウェアではなくむしろ、ハードワイア、堅い針金細工のようなものだ。

何か役に立つ発見があると、その新しいものを「システムに針金で結い付け」れば、、失くして、«忘れられて»しまわないよう、サバイバルを強化することになる。

1950年代には、原子力は何でも解決できる答のような顔をしていた。来たるべき原子力の黄金時代にはエネルギーはメーターが不要になるくらいに安くなる。一世代が丸ごとそう信じ込まされ、それは頭脳に針金で結い付けられて、変えれないようである。

もちろん過大評価だった。故意にそうしたのだ。国連加盟国の一部が、核兵器を開発しようとし、プルトニウムを必要としていたのだ。イギリスでは、否認し続けられてはいるが、民間原子力プログラムはプルトニウムの生産のために運用され、今や100トンの在庫を抱えて、処分に困って核燃料に混ぜ込もうとしている(MOX燃料)。(これがA世代、核推進派の世代である)

1979年と1986年という2度にわたり、巨大で警告的な核事故を私たちは経験した。そして核の力はあまりに危険似すぎると誠実に(また理性的に)信じる世代が登場した(B世代)。サバイバルは危うくなってきた。

その結果、原子力は汎地球的に凋落に向い、能力のある原子力技術者や物理学者たちの中から、職を他に求める人たちが続出したーー核は黄昏れ産業と化した。こうした流れに、数週間前のフクシマは拍車をかけたに違いない。

2000年頃だが、汎地球的気候変化が重要な政治課題として浮上してきた。(A世代によれば)原子力こそ、解答である:もはや安いエネルギーではなくなったので、今度は低炭素のエネルギーだというわけだ。2つの事故の結果の矮小化を通じて、こうした見方は多くの人々を引き付けた。原子力ルネサンスが見込まれる(れた)。B世代の立場からA世代の立場へと転向した人々もいる。著名なところでは、モンビオ、ラヴロクなど。

かくて、今や、核の有用性の議論は二つの陣営に割れていて、共通の土俵などはないーーどちらにとっても、相手方は不合理で滑稽の極みだ。

しかし1980年頃には、一筋、光明もあった。その時代に、原子力の未来は«高速増殖炉»へと向っていた。この炉はウラニウムを製錬する必要がなく、プルトニウムを燃やすことができ、炉は天然のウランから燃料を「増殖」することができる。

1980年頃、ジアン=カルロ・ピンケーラというイタリアの核物理学者が、高速増殖炉は本質的に危険であることを示した。
ただ1本の講演録で、高速増殖炉はほぼ全面的に放棄された。私は1990年代の初めにピンケーラに会ったが、彼は「核の弁護人たちは死後硬直の瞬間に蹴りを入れてくる、注意したまえ」と警告した。

今まさに私たちはその蹴りを目にしている、しかし、彼らは多分、死んでなんかいないのだ!

フクシマ:この事故が原子力政治に与えるインパクトを見るには時期尚早である。

この寄り道のポイントは、WHOとIAEAの間の、私たちの直面している状況を説明するためであった。

私たちには、2つの決定的に対立した見方があり、一方は一方の陣営に、他方は他方の陣営にある。

国連はどう働くか?

私は下部から(技術スタッフの話から)始めよう。これだけは忘れないでいただきたい:
加盟国は国連に金を払っていて、だから利益を引き出そうとしている。

沃素安定剤のガイオドラインの作成過程を、例として取り上げよう。1997年に、IAEAのマルコム・クリクと、WHO欧州事務局が雇ったウェンドラ・ペイルとリーフ・ブロンクヴィストという2人の研究者とともに、技術スタッフ・レベルの連携プロジェクトとして始められたものだ。

1998年の中頃、ガイドラインの最初の草案が、IAEAとWHOとの管理者レベルで回覧された。

2つの組織の間には管理者レベルの明確な合意があったし、仕事はオープンに進められていた。ところがIAEAはここまできて引いてしまい、問題の部分があるから、そこの全体を省くか、見直すことを強く勧告した。問題の部分は、行動の実施規準となる子どもの甲状腺被曝線量を100グレイから10グレイに引き下げる提案であった。

1999年にWHO欧州事務局は、出版に向うべきだということでジュネーブ本部を説得した。

IAEAはガイドラインに「草案」であり単なる参考資料だとして繰り返し言及する、という形で応酬した。これはガイドラインに加盟国から疑いの目を向けられたこと、また、加盟国はこのガイドラインを採用しなかったことを意味する。

IAEAに従えば、加盟国の多くが、このガイドラインの新しい実施規準の部分が、「科学的に不十分」と見做していたという

そこでWHOのジュネーブ本部はガイドラインの弁護を拒んだが、欧州事務局は立場を変えなかった。

問題は2001年にウィーンで実務会議を開いて解決されたが、そこでは科学的不十分さなるものについて4日間以上もの間、議論された。

最終的に明かになってきたのは、フランスがコストを理由に反対していたということで、IAEAはフランスの利益に沿って行動していたのだということである

政治レベル(加盟国)がIAEAに圧力を掛ける
フランス

管理者レベルでは、IAEAは報告書への裏書を拒み、WHOはそれでもガイドラインを1999年に出版する。しかしIAEAはそれはただの「草案」だと主張し、ジュネーブのWHO本部も同意する
IAEA:アベル・ホンサレス
WHO:リヒャルト・ヘルマー、ミカエル・レパコーリ、アン・カーン

安定沃素剤ガイドライン策定のためのWHO/IAEA連合による技術共同作業(1997/99)
IAEAからマルコム・クリク
コンサルタント2名: ウェンデラ・ペイル、リーフ・ブロンクヴィスト

これに関しては、WHOとIAEAとの合意はまったく関係がない。IAEAは一加盟国の代理人として行動したのである。

今、必要なのは、公衆全体のレベルでの事故のインパクトを知るための戦略である。そうした時にのみ、政府が一般的に認めるよりもずっと酷い健康被害があるということを示すことができ、兵器と電力、というのも二つは繋っているからだが、その双方の領域で核の問題をキチンと議論することができる。

ここ2年間、欧州連合に援助されたグループが、健康調査の優先順位を見直す作業を続けてきた。

「チェルノブイリ調査計画」(ARCH)プロジェクトは完成し、「戦略調査計画」が公表されている(http://arch.iarc.fr)

ARCHは欧州連合に対し、広島長崎の原爆生存者に関して行なわれた諸研究にも似た、「想定寿命研究(LSS)」を、既存の諸研究をベースに進めていくための資金援助を、被害を受けた3国と協力して行なうよう、勧告している。

EUを説得して動かすには、政治レベルでのサポートが必要である。このことは今や急務で、IPPNWのような関係NGOがEUに対して圧力を掛けていく必要がある。

IAEAはこういう研究はしないし、WHOがもしすればIAEAは妨害してくるだろうと、いうことは確信してよい。