被爆者になることを強制されている私たち


佐藤和良

2011年5月15日、いわき市・平中央公園「放射能のない平和な未来を求めるパレード」会場での挨拶

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どうも皆さん、今日は。脱原発福島ネットワークの佐藤和良でございます。

こんなに本当にいい天気に恵まれました。五月晴れです。しかし風向きが、何か気になりますね、やっぱり。今日、今朝、私の家の前の空間線量は地上1mで0,43から0,31ぐらいの数字でございました。しかし、中通りのほうはやっぱりかなり高いですね。1桁上になって1点いくら、っていうことになっていうと思います。今日はこんな中で、いわき市内外からこんなにも沢山の方がお出でいただきまして、本当に有難うございます。

残念ながら、原発震災が起きてしまいました。私たちがこの30年間、脱原発ということでこの苛酷事故をなんとか防ごうということで運動を続けてまいりましたが、ことここに至りまして、私たちいわき市民はじめ、福島県民が被爆者になる、被爆者に強制される、ということが今、日々、この日常生活の中で、強制されています。

昨日、郡山で働く者のメーデーの集会がございました。ある労働組合の関係の方が「広島長崎の原爆被爆者手帳のように、福島県民に原発被爆者手帳を配るべきだ」ということをおっしゃっておりました。まさにその通りではないかと思います。

今、このいわきでも線量の高いところは既に3月13日からの積算線量で1500μSvを超えております。つまり、今、国民の、一般市民の年間線量限度である1mSv、1000μSvをいわき市内でも超すところが既に出ております。

福島や郡山、二本松に至っては既に4500〜5000μSv近くになっているわけです。立地町はもとより、飯館村や川俣のように現に避難を強制されている多くの故郷を追われた福島県民のこの思いを、今日は、皆で、皆で表現していけたら…そういうふうに思います。

これから私たちいわき市民をはじめ福島県民、そして多くの全国の人たちが、この放射線被曝と向き合って、これからは生きていかなければなりません。昨日、ようやく、東京電力が認めましたように、第一原発1号機は既にメルトダウンをして、圧力容器の底部にドロドロになって熔け落ちてしかもなお、それは制御棒のハウジング等を通じて、格納容器まで落ちている。地震で大丈夫だった、あるいは津波で、想定外の津波で事故が起きたんではなくて、既にあの3月11日2時46分のあの地震で大口径破断、小口径破断、配管が破断して冷却材が無くなり、そしてメルトダウンに至ったということがはっきりしてきました。

私たちが警告してきたとおり、耐震安全規準などというものはまったくいい加減な作文だったのです!

全国のどの原発一つとっても、耐震規準などというものは何の役にも立ちません! この大地鳴動の地震活動期に全国の原発を止めていかなければ、日本は滅びるでしょう。日本を救うために、原発を止めなければなりません!

私たちは福島10基の廃炉を手始めに、既に浜岡も今、止まりましたけれど、これからが勝負です。あそこの直下の活断層が動かない前に、燃料棒をどうにかしなければなりません。そういう危機的な状況です。安心はできません。

東京電力も保安院も安全委員会も、そして一人ひとりの御用学者、マスコミ、総力を挙げてまた再び、私たちに原発を継続しようという、そういう動きに出てきていると思います。推進側は眠っておりません。この推進側の動きに、私たちは手を緩めることなく、脱原発の旗を掲げてエネルギーシフトを変えるように、全国で声を挙げていけたらというふうに思います。

最後に、今、第一原発のサイト内では多くの人たち、2次、3次…2次はあまりいないでしょうけれど、3次以降の協力企業の方たちが高線量被曝の中で本当に命を削って今、作業しております。そうした働く仲間のことを思い、100ミリというこの線量を超えさせないように、私たちは被曝労働者のことに思いをいたしながら、声を挙げていきたいと思います。

どうぞ皆さん、今日を皮切りにして、このいわき、子どもたちを守る«いわきアクションママの会»のこの動きを、福島県内、そして全国に拡げていきたいと思います。拡げていただきたいと思います。皆さん、頑張りましょう! 有難うございました。

あたしの心は今でもまだ、川内村の土や山や川に繋って生きています


大塚愛

2011年5月15日、いわき市での「さよなら原発」パレード会場にて

イマジンにのせてフラを踊る大塚さん(右)

イマジンにのせてフラを踊る大塚さん(右)

私は94年から福島県川内村の山の中に住んでいました。美しい自然の中で自分の手で家を作り畑を作り田圃を作り、それから電気が来てないところだったので、エネルギーの自給ということでソーラー発電で独立型の電気だけを使って12年間、生活してきました。

美しい自然の中で暮しながら、20kmのところにある原発のことを常に心配しながら、生きてきました。そして今まで、起って欲しくないと一番、思っていたことが現実のことになってしまいました。

今は幼い子どもが2人いるので、岡山市の実家に家族4人で3月から避難して帰っています。でも岡山に帰って子どもたちも安心しましたけれど、心のほとんどは福島県に残ったままです。あたしの心は今でもまだ、川内村の土や山や川に繋って生きています。

そんな中で今、岡山市でできることをやろうと思って、原発災害の話を私なりにさしてもらったり、それから、福島県や関東から岡山市に避難してこられている方がいるので、そういう方に空家の情報を提供したり、サポートする活動をしたり、あと、福島県に正しい情報を伝えたいと思って田中優さんのDVDを送る活動をしたり、今、自分にできることをやっていこうと思って今、岡山市で生きています。

昨日、2ヵ月ぶりに川内村に帰ってきました。2ヵ月ぶりの川内で何を感じるかなって思ってたんですが、帰ってきて感じたことは、素直に、自分の好きな場所に帰れて山や田圃や畑や家に出会えて、嬉しいという気持でした。

これからも私は岡山にいて生活していきますけども、岡山から福島に心を繋げて生きていきたいと思っています。そして廃炉アクションの一環として私はジョン・レノンのイマジンという曲をフラで踊って、それで廃炉・脱原発をアピールいていきたいと思って、岡山でもそれを始めています。