福島県環境創造センター交流棟の展示内容などに関する意見


2014年10月24日
福島県環境創造センター整備推進室
室長 菅野信志様

福島県環境創造センター交流棟の展示内容などに関する意見
フクシマ・アクション・プロジェクト
共同代表: 小渕 真理
______武藤 類子

2016年4月、三春町に開設予定の「福島県環境創造センター」の一角の交流棟には子ども向けの展示エリアが設けられ「正しい福島の情報を伝え、福島の未来を創造する」とされています。3.11福島原発事故後、初めて作られる放射能に関する公的な研究・教育施設となります。この展示は学校教育の一環として、福島県内の小学5年生全員に見学させる予定となっています。放射能に関して子どもたちに何をどう教えるのかは非常に重要です。崩壊した「安全神話」を形を変えてよみがえらせるようなものであってはなりません。
復興予算200億円もかけて建設予定の「福島県環境創造センター」は未曾有の原発事故を起こした当事県として、また最大の放射能被害を受けた被災県として、この事故をどう捉え、どのように全国に、世界に発信するかという基本姿勢が問われています。私たちは全国・全世界・全人類へ対して、この事故の全容を解明し、反省し、謝罪して、「第2のフクシマ」を繰り返さないように警告するべきものと捉えています。
私たちはそのために今年6月の福島県定例県議会に「交流棟の企画内容を原発事故と被災の教訓を踏まえたものにすることを求める」請願を上程したところ2014年7月2日に全会派の賛成のもと採択されています。この請願の趣旨を踏まえた交流棟建設にするために、以下の点についてあらためて意見書として提出いたします。

_
― 記 ―

今年度6月定例福島県議会に提出し、採択された「交流棟の企画内容を原発事故と被災の教訓を踏まえたものにすることを求める」請願の主旨を遵守した企画内容にするために、特に以下の点について具体的に提言する。

1.3.11原発事故の事実経過と全容が明らかになっていない現状(爆発した1~4号機の全容未確認、汚染水・放射性廃棄物問題の行き詰まり…)と事故は終息していないという事実を明記すること。
2.県内原発全期廃炉への決然とした決意とそのために全世界からの叡智を結集して、問題解決に当たる決意を表明すること。「福島原発事故の解明なくして再稼働はあり得ない!『フクシマ』の復興なくして日本の復興はあり得ない!」と強く発信すること。
3.「警戒区域の解除化」「健康被害・風評被害の矮小化」「頻繁な各種イベント開催などによる安全キャンペーンの拡大化」による実態隠しを止めること。それらによる拙速な帰還促進策も止めること。
4.「自然界にもある放射線」を強調し、「低線量被曝」への警戒心を低下させないこと。特に子どもたちにとって、閾値のない「被曝」は極力避ける必要があることと「保養」の大切さも知らせること。
5.検討委員会メンバーには被災者代表者や「被災者や市民の視点からの代弁者が見られないのは問題である。別途、専門家からの意見を聞く予定があるとのことなのでせめて、「理系のみならず、人文社会系の学識経験者を交えた政府や産業界から独立した学識経験者」からの意見も取り入れること。
6.水俣のように「語り部システム」を作り、事故の悲惨さを忘れさせないようにすること。この事故によってふるさとを追われ、家族バラバラに分断され、家も、仕事も、生きがいも失い、先の見えない生活を強いられている原発難民の悲惨な実態を伝えるべきである。原発問題は単にエネルギー問題ではなく「いのちの問題」につながることに気づかせること。
7.持続可能な再生可能エネルギーの最先端技術を研究開発し世界に誇れる「安全な再生可能エネルギーモデル県」にすること。ここにこそ、新たな研究・雇用・事業開発を起こし、若者に明るい希望を持たせること。
8.施設全体を通して福島県として、この事故の全容解明への日々の最大限の努力・反省・謝罪の意思を伝え、そして見学者と「第2のフクシマ」を繰り返してはならないという思いが共感できる施設にすること。

以上

「原子力に反対する100個の十分な理由」の日本語版


ドイツのEWSシェーナウ電力会社が、「原子力に反対する100個の十分な理由」の和訳版を発行しましたので、そのリンクをご紹介させて戴きます。これは、35頁から成るPDFドキュメントです。

http://100-gute-gruende.de/pdf/g100rs_jp.pdf

和訳版の発行に伴い、ウアズラ・スラーデク(Ursula Sladek)女史がEWS電力会社を代表して、下記のメッセージを日本の皆様に送っています

日本の読者の方々に

福島の原子力発電事故は、私たちにこの冊子を日本語に翻訳することを思い立たせました。

ここに記した数多くの数値やデータは、ドイツの原子力発電所に関するものですが、事実は世界中どこでも同じです――原子力エネルギーは危険であり、 非民主的で、高額で、不要なものです。この小さな冊子が日本において、原子力に反対する市民運動に少しでも力を与え、支持するものであれば幸いです。

日本にお住まいの方で、地震に、津波に、そして原子力災害で悲惨な目に遭われたすべての方々に、私たちから心からのお見舞いを申し上げます。

自然災害による脅威は、この先も私たち人間が完全に管理することはできないでしょうが、日本において原子力は私たち人間で終りにすることができます――この道を進まれ、幸運を心から願っています!みなさまのことを心から想って、

ウアズラ・スラーデク(Ursula Sladek)EWSシェーナウ電力会社代表

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以下、EWSシェーナウ電力会社が設立された歴史について簡単に説明させて戴きます:

EWSシェーナウ電力会社は1、000人の市民が所有する電力会社で、ドイツのシュヴァルツヴァルト(Schwarzwald-ドイツ南西部に南北につらなる高原状の山地 )に位置する、人口2,000人ちょっとの小さな町、シェーナウにあります。

1986年、チェルノブイリ原発事故から放出された放射能雲がヨーロッパ全土をおおったとき、シェーナウに住む多くの親たちは、自分たちの子供たち の健康を憂慮しました。そして、原子力発電に反対する行動を起こそうと市民運動を立ち上げ、「原発のない未来のための親の会」を結成しました。

まず、彼らが取り組んでいった課題は、「電力節約(省エネルギー)」でした。彼らは他の住民たちにも「電力を節約すること」を勧めていく活動を行い ました。電力会社にも「電力節約」への協力を要請したのですが、「我々のビジネスは、電力を売ることであって、電力を節約することではないのですよ」と、 簡単に拒否されてしまいました。

そこで、住民たちは「電力送電網」を自分たちのものにしていくことを思い立ったのでした。「市民が自らの手でソーラ、風力、水力を利用して電力を生 産すること、そして、それを自分たちが所有する送電網に送る込み、電力を供給すること」、これが、彼らの目指すべきゴールとなりました。

その間、送電網の所有に関する住民投票が2度あり、市民が運営するEWS電力会社は2度とも、住民投票で勝利を得ました。しかし、電力会社からは、 「得票があっても、送電網の所有権は我々にあるのだ。送電網を自分たちのものにしたいのなら、900万マルク(約4億5千万円)で売ってやるよ」との言葉 がかえってきたのでした。

送電網を自分たちのものにするための資金集め市民運動が始まりました。それから、彼らは7年間を費やして、ついに送電網を自分たちのものにすることができたのでした。

現在、ESWシェーナウ電力会社は、ドイツ全国にわたり計およそ15万の個人世帯へ電力を供給しています。

ドイツにおける電力購入は、どこから電力を買うのか、個人個人が自由に選択できるシステムになっています。

以上

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye2799:141020〕

福島市野田町界隈


イヴ・ルノワル

2014年10月12日、福島市野田町の佐々木慶子宅近辺からの、イヴ・ルノワルによる報告

1。はじめに

藤本智子とイブ・シュヴァリエ、竹内雅文、マルティン・ヴァルタと私とは、荒川の際に建っている佐々木慶子さんの大邸宅に厄介になっていた。この川は、福島市の東部をほぼ南北に流れている阿武隈川の、支流の一つである。

荒川は市街の中心部を迂回して南側を流れ、野菜畑や稲田や果樹園に水を運んでいる。慶子さんの家は新幹線の駅から遠くなく、田畑のある地帯から見れば東の端になる。下の地図では、左上のあたりにある樹木のマークのあたりである。

y-n01

前日に農道の細い網の目を通って2,5kmと少し東に行って、全体を眺めた。四角く細かな区画に区切られた耕地に混って、まだ工事が終っていなくて、グーグルアースの衛星写真にも載っていない、新しい太陽光発電設備の敷地があり、すぐ近くには、若い人たちのためのサッカーと野球の練習場もある。

まず、家の周辺部の放射能を測ったが、その結果に私は困惑した:
・家の前の路上で、0,35 μSv/h
・果樹園へと続く道の通っている土手に抜ける、家と隣家との間の小径で、0,45 μSv/h
・家とこの土手道との間の斜面では、0,5 〜0,75 μSv/h
使用計器は、ベルラド研究所から貸してもらっている、検出部の4本あるソスナである(1計測に25秒)

2。 4個所

道に沿って4個所で計測をしたが、その位置は下の航空写真に赤い数字で示してある。

y-n02計測器は腰のベルトの位置、つまり地上から約1mで水平に保持している。だから、4本の検出部は地面から正確に2πのステラジアン角に従って到来するガンマ線を記録する。空から来るガンマ線も同じステラジアン角に従う。

計測した値から0,12 μSv/h(自然放射線)を差し引くと、土中にあるセシウム137からのガンマ線がどれだけかが分る。

時速約6-7 km の早足で歩きながらの計測による平均値になる。1計測は25秒である。50mほどの間における、ガンマ放射空間線量の平均値が得られることになる。

窪地などに流れが運んできた放射能が溜って、ホットスポットになっているが、人が通常まず近づかないような場所の場合には、考慮から外すことにした。

赤字で番号を振った4個所にはそれぞれ、次のような特徴がある。
1 左にはほぼ建設を終えた600 kW の太陽光発電所がある。右には野球場がある。
2 数字の下になるが、道の反対側は野球場で、表面は土である。
3 数字の左になるが、高圧線の鉄塔が立っている。周囲は田畑や果樹園のある典型的な光景である。
4 数字の右に一種の狭い橋(水道施設)が荒川を跨ぎ、そのまま真っ直ぐ、真北の位置にあるのが、屋根に太陽光設備を載せた佐々木慶子宅で、道に沿って建っている。

畑作も稲作も、普通に行なわれていた。林檎の収穫が始まっていて(梨や桃は既に収穫を終えていた)、稻藁の束は積み上げられ、野菜畑の手入れも行なわれていた。土曜日には、高校生たちがサッカーをしていた。日曜の朝、9時少し前、野球のチームが試合の準備を終えるところだった。土手道には、人々がジョギングをし、散歩をしていた。若い人たちが自転車に乗って来ていた。

3。 写真と計測
3.1 第1地帯

y-n03北西の平地は現在、太陽光発電所になっている。右には野球場があって、隅には、道に挾まれて更衣室がある。太陽光受光部の並ぶあたりでは放射能の計測値は0,25 μSv/hだが、砕石が20cmほどの厚さに敷かれていることが、影響していよう。野球場では0,5 μSv/h 近辺である。4枚目の写真は、道の反対側あたりの荒川である。

y-n04y-n05y-n06y-n07y-n08y-n09太陽光発電材料の中でも、もっとも安価な部類になる、非結晶シリコンの技術が使われている。1枚目の写真に写っている立て札には、この発電所を作った会社の名前などが記されている。

最後の写真は野球場の反対側の風景だが、稲田は刈り終えられ、葦原があり、右手には有袋、左手には無袋の林檎が見えている。

3.2 第2地帯

y-n10y-n11右手、中ほどの高さの位置にサッカー場があり、2つのゴールが人目を引く。計測した放射能の数値はサッカー場では0,55 〜0,65 μSv/hであった。果樹園もほぼ同じであったが、やや高い場所もあり、0,75 μSv/h ほどに逹っした。反対に、水田や畑地では数値は低く、0,3〜0,45 μSv/hほどであるが、恐らく、土を耕したり、起こしたりした爲ではないだろうか。そうすると、セシウムからの放射の一部は土の下になり、土に吸収されるので線量は低くなりはするが、セシウムが減ったわけではない。植物の根がそうしたセシウムを吸い上げる可能性は常にある(その土地の物理的な性質、土壌中の有機質の量、栽培植物の種類、施肥の状態、特にカリウム肥料の量などによって、吸い上げ方は異なる)。

荒川の縁では、放射線量は概して高い。0,6〜0,75 μSv/hである。アスファルトやコンクリートの敷かれた場所では、線量は低くなる。0,45 μSv/h 前後である。

3.3 第3地帯

y-n12まず目につくのは鉄塔とその影である。地面は小片に仕切られ、野菜畑、稲田、果樹園が入り混ってパッチワークさながらだ。この付近一帯にもっとも普通に見られる土地の様相である。続く写真では、労働の質、樹々、とくに桃の木の美しさと力とをご覧いただける。遠く、稲田の向うに見えているのは梨の木だが、一種の支え木を水平に渡して、人工的な樹冠を作り出している。土は驚くほど豊穣で、手入れの行き届いた産物は格別に健康そうな様子である。農薬類の特有の臭気は私にはまったく感じ取れなかった。ただし、一年中そうなのかどうかは、調べてみる必要があるだろう。

y-n13y-n14桃の老樹の切り倒された幹が果樹園の縁に積み上げられて腐るに任されていた。切り株は、生えていたままの場に残されている。木々の枝が払われていて、風通しが良く、樹間距離も充分に取られて、隣りの木どうしが邪魔をしないようになっている。

y-n15y-n16y-n17y-n23y-n213.4 第4地帯

y-n25橋の軸上に正確にあるのが慶子さんの家だ。もっとも高い放射能の値が計測されたのは、家のすぐ前にある弓形の小径のあたりだ: 0,75 μSv/h 。
原発事故以来、日本では、太陽光発電が本当のブームであり、家々の屋根や工場あるいは商業施設の屋上もそうなのだが、太陽光発電所の形を取っているものもあり、 いちばん大きなものでは最大出力50MW を超える。
佐々木慶子の家では勾配の付いた屋根の南向きの部分の大半は受光装置に覆われているが、そこから数百メートルほどのところでは、地面に枠を設置して、多結晶シリコン技術を使った最近の型のパネルを見掛けた。

y-n26y-n274.結論は?

結論を出そうとするのは馬鹿気ていると、ギュスタヴ・フロベルが何度も言った。2011年3月11日の福島第一原発の爆発に由来する放射性降下物の害を受けている地域の置かれている、この奇妙な、整合性を欠いた、カオス的状況では、こうした攻撃的物言いがかつてないほどに当て嵌る。

県庁所在市の周辺部と言えるこのあたりに付け加えられた外部被曝値は結局、0,4 μSv/h (3,5 mSv/年)程度である。これは地表近い部分の土壌汚染に換算すると200 000 Bq/m2程度になるのだろう。しかし3年半が経つ間、除染も試みられ、豪雨も何度かあり、初期に蓄積した放射能のかなりの部分が運び去られ、あるいは地面の下に沈み込んだ。この地下に染み込んだ放射性物質から発する放射線は吸収され、その強さは、沈降した深さに応じて指数関数的に低くなる。200 000 Bq/m2 という値は、土壌の実際の汚染よりも、低く出ていることになる。本当の汚染の重大性をはっきりさせるには、数多くのサンプルを採取して分析しなければならない。

何れにしてもこのあたりは、旧ソ連の汚染地域に残された管理下に置かれた地域と同等の汚染地域である。ここからの収穫物をどうしているのか、詳細な調査を行なえば、生じる危険性について日本の当局がどのような考えを持っているのか、明かにできることだろう。私が見た範囲内では、農民たちは経済的に困っているようではなかった。クルマに乗って田畑にやってきて、落ち着いて作業をしていた。若い人たちは土埃の舞い上がるグランドでサッカーをしていた。新な危険がどこにでもあるのだが、そんなことは誰も気に留めていないようだった。

福島第一から10km少々の浪江町は準立入禁止地域なのだが、そこでこの数時間後に計測した数値は0,10 〜0,23 μSv/hだった。野田町の高い数値と、立入禁止区でのこうした数値を突き合わせてみなければならない。事故の帰結の管理に、理解し難い不整合があるのが、比較から明かだ。発電所の廃墟から12〜13kmの距離での0,26 μSv という数値は、その地域の汚染が、同じ発電所から60km以上離れている佐々木慶子さんの家の近辺と比較して、放射性残留物の蓄積量が、3分の1程度であるためであるからだと、考えるしかない。なのに、距離さえ離れていれば、放射線から守られるとでも言うような施策が取られているのである。

最後に、著者はたいへん上手い具合に風水を取り入れた部屋で、3晩を過すという喜びを味わったことを付け加えておこう。

y-n28部屋は慶子さんの家の3階にあって、南向きのガラス窓を隔てて荒川に面している。伝統的な寝室の作りそのままというのでもないようだ。共用空間である大きな部屋とは、3枚構成の引き戸で隔てられている。頭を西にして布団を敷き、窓は開けたまま、背を北に、川の流れの呟きに揺られ、新鮮なそよ風が頬を撫でるに任せて、私は眠った。ちょいと覗いただけのその時から、私は勝手にお気に入りの場所に指定させていただくことにしたのである

学習会報告


佐々木慶子

10月11日(土)、フクシマ・アクション・プロジェクト(FAP)として第1回の学習会を福島市で開催しました。タイトルへの関心が高かったせいか緊急のお知らせの割に60人近くの参集を得ることができました。
イヴ・ルノワールさんのお話は現地に何度も入り、疫学的にも調査を続けている生の情報が聞けてとてもよかったと好評でした。
中でもWHO(国連世界保健機関)、IAEA(国際原子力機関),ICRP(国際放射線防護委員会),UNSCEAR(原子放射線の影響に関する国連科学委員会)は立派な大義名分を掲げながら実は、陰で結託して原発推進の妨げにならないように役割り分担をして放射線への危機意識を高めないように世界に目を光らせていることなどが分かりました。

DSC01374続いて福島県が復興予算200億円もかけて2016年に開設しようとしている「福島県環境創造センター」についての問題指摘を行いました。これはあまり福島県民にも知られていません。建設予定は県内2ヵ所(三春町と南相馬市)の内、三春町に建設されるものは3棟からなり、その中の1棟の交流棟には展示エリアが設けられ3.11福島原発事故後初めて作られる放射線に関する公的な研究・教育施設となります。
県内の小学5年生全員に見学させるという意図は何なのかなどにFAPとして疑問を持ち昨年から県と何度も交渉を重ねてきました。今年6月の定例県議会には「交流棟の企画内容を原発事故と被災の教訓を踏まえたものにすることを求める」請願書を上程したところ、7月2日に全会一致で採択されました。これらの経過や問題点などをFAPとしてまとめたパンフレットを配布して説明しました。

当日はFAPメンバーはもちろん、原発いらない福島の女たち、ふくしまWAWAWAの会、福島連絡会などからたくさん駆けつけて細部にわたるお手伝いをいただきありがとうございました。
嬉しいことに当日入会が6人で18口ありました。また、東京新聞社の記者が取材に来ていましたがその成果が10月19日付の「こちら特報部」に大きく報道され「福島県環境創造センター」問題が市民権を得て来ていると感じています。さらにこれを読んだ天木直人さんが御自分の10.19付のブログで私たちにエールを送ってくれていることも分かりました。

以上、ご報告いたします。

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ドイツ環境団体代表が来日


吉田明子

10月18日から21日まで、FoEドイツ(ドイツ環境自然保護連盟、BUND)の代表らが来日します。
目的は、福島の現状や、川内原発再稼働反対運動など、ドイツであまり伝えられない日本の状況を見ることと、ドイツの原発・エネルギー政策に関する状況を共有することです。
チェルノブイリ原発事故により、特に南ドイツ地域は影響を受け、現在の日本と同様に、多くの市民や環境団体が、独自の放射線測定や脱原発運動に立ち上がりました。FoEドイツも、そうした活動に中心的携わってきました。
19日、ヴァイガー氏、メルクナー氏は「原発いらない福島の女たち」の案内で、三春町、川内村、富岡町を視察します。その後、福島の状況について、またドイツでの市民運動についてなど、意見交換の場をもうけます。どなたでもご参加いただけますので、ぜひお気軽にお越しください。

福島の市民とドイツ環境市民運動代表との意見交換会

【日時】 2014年10月19日(日)15:00~17:00
【場所】 福島県教職員組合郡山支部 2F会議室

(福島県郡山市桑野2丁目33ー9)

【プログラム(予定)】
1)趣旨説明、参加者の紹介
フーベルト・ヴァイガー、リヒャルト・メルクナー、(FoEドイツ)
福島で活動する市民
2)視察に関する感想やコメント
3)ドイツでの市民活動について
4)質疑・意見交換

【主催】 FoE Japan
【協力】 原発いらない福島の女たち、フリードリヒ・エーベルト財団
【参加費】 無料
【申込】 不要。直接会場にご来場ください。
【問合せ】 03-6909-5983 /080-5173-0136 (吉田)

●スケジュール
10月19日(日) 午前:環境創造センター(三春町)、川内村、富岡町ゲートなど視察
(コーディネート:原発いらない福島の女たち 武藤類子さん)
10月20日(月) 福島県庁訪問+記者会見(調整中)
10月21日(火) 公開セミナー(東京・衆議院第二議員会館、16:30~19:00)
「ドイツのエネルギーシフトと市民参加、核廃棄物最終処分場問題」

●現在のドイツの状況と環境団体、FoEドイツの取り組み

1)エネルギーシフトの現状と政策
ドイツでは、再生可能エネルギーの割合が23%以上に達するなど、再生可能エネルギー法により、エネルギーシフトへの実質的成果が上がっている。

一方で、現政権(第二次メルケル内閣、CDU・FDP連立)は、化石燃料へのゆり戻しの動きもある。
再生可能エネルギー優遇政策はブレーキをかけられ、石炭回帰の動きも強い。最近は脱原発運動への世論喚起も以前よりは難しくなってきている。

2)高レベル放射性廃棄物最終処分場問題と市民参加
長らくゴアレーベンが、最終処分場の候補とされてきたが、安全性や住民の反対などにより2013年に白紙撤回された。新たに審議会「処分場委員会」が立ち上げられ、2015年までに選定基準を提案、2031年ごろまでに決定する予定。
この、処分委員会メンバーには、各政党や各州の代表のほか、専門家や市民団体の代表も参加しており、FoEドイツからも、副代表のクラウス・ブルンスマイヤー氏が参加している。市民の意見を伝えるために重要という一方、核廃棄物について責任を取るべきは推進はであるという意見など、参加については内部でも複雑な議論がある。
しかしながら、倫理委員会なども含め、市民団体の代表や若者、教会関係者、など幅広いステークホルダーが政策決定プロセスに参加しているという背景も興味深い。
・処分場委員会(ドイツ) http://www.endlagerung.de/

●プロフィール

<フーベルト・ヴァイガー氏> Hubert Weiger
2007年よりFoEドイツ(ドイツ環境自然保護連盟)代表理事。またFoEドイツ・
バイエルン州支部代表理事。
1974年より自然保護連盟(FoEドイツの前身、バイエルンの環境団体)の代表
メンバーの一員であり、1975年のドイツ環境自然保護連盟創設者のひとり。
専門は森林生態学、農学など。また反原発運動にも40年来携わる。
ドイツ政府・持続可能な開発審議会委員、欧州自然財団理事、バイエルン州公
共ラジオ評議会評議員、トランスペアレンシー・インターナショナルドイツ評
議員、ドイツ食糧農業消費者省・森林政策審議会委員 ほか。1947年生まれ。
2011年9月、2012年3月に来日し、福島、東京、福岡を訪問、講演。

<リヒャルト・メルクナー氏> Richard Mergner
2002年よりFoEドイツ・バイエルン州支部理事。
経済地理学専攻。1990年よりFoEドイツバイエルン州支部ニュルンベルク事務
所のスポークスパーソン(専門担当官)。地域グループの取りまとめの他 、
公的機関である地域開発組合における環境団体の代表、地域開発計画の作成や
遂行に関わる。1999年からFoEドイツの交通政策分科会の代表をつとめる。欧
州交通政策グループITEや、プロテスタント教会の環境会議(KUK)メンバーな
どもつとめる。2012年3月に来日。

チェルノブイリでの放射線防護と、その後


イヴ・ルノワル

この文章の原文は、2014年10月14日に早稲田大学内で開催されたフォーラム用の準備稿で、11日に福島市で行われたフクシマアクションプロジェクト学習会でのイヴ・ルノワル氏の講演も、概略、これをもとに行なわれている。

1. はじめに

チェルノブイリの破局的惨事の後には、前例のない甚大な健康被害が続いた。

私が提起したいのは、その起源と制度上の理由の明確化である。

この甚大な健康被害の存在を否認する人たちの聖典とも言うべき、2006年に出た「チェルノブイリフォーラム」報告書の編者たちのうちの何人かが、福島事故後の放射線計測と健康影響予測との担当チームを組織したのだった。また別の«古株»たちは被災地を跋扈し、ベラルーシで破産したはずのエトス=コア方式を適用している。

チェルノブイリでの甚大な被害に光を当てることが、福島後の状況下で進行中の同様の被害に向き合う助けになればと、願う次第である。

2. 1986427日の状況と役者たち

プリピヤチからの退避が始まったのは27日で、爆発から36時間たっていたが、 放射性の霧塊の第一陣がスエーデンのフォルスマルク発電所に到達して、探査装置を作動させるよりは前であった。

1988426日に私はチェルノブイリにいた。その時の診療所長の説明によると、事故に先立つこと数年、アメリカによる«先制»核攻撃が懸念されていた時期に、練り上げられていたシナリオに基いて退避は行なわれた。核戦争を闘う部隊の兵員一人一人の被曝量を1Sv以下に抑えるという積りであったのだ。プリピヤチでの爆発直後の線量は平常の30万倍ほどに当たる、30 mSv/hほどにまで上がっていた。この数字は、事故を起した4号原子炉からほんの数十mの場所で、初日に«清算»作業をした人たちの推定被曝線量から確かめられる。それは3 Sv 以上(125 mSv/h 以上)であった。退避は必然となった。

世界がチェルノブイリ事故を始めて知った時には、プリピヤチは既に町としては死んでいた。

チェルノブイリ後の甚大な健康被害にICRPが果した決定的な役割を述べる前に、まずはこれをご覧いただきたい。

yvesw02195056年に国際連合の外郭で、放射線防護の諸機関がどういう国際的布置にあったかが、ここに示しておいた。この中で中心的な権威の役割を果していたのは、ICRPである。

階層的な図式に当て嵌っていることが、良く分る。

1)研究機関や大学などから発表される論文をUNSCEARが審査する。ここでの篩い落しに残ったものが、放射とその影響に関する«科学»の中身をなす。委員会の報告は国連総会にかけられ、総会はこれを承認して抗い難い権威を与えることになる。

2)この«権威を付された»基礎内容を拠り所として、

電離放射線と放射性物質による被曝に人が曝されるあらゆる部門にわたって、払うべき予防・注意措置

超えてはならない被曝線量の上限値

ICRPが勧告する。

3)これ以外の諸機関は、この勧告に基いて、規則や法的処置を定める。

1962年にICRPは勧告の適用を任務とする第4委員会を創設した。チェルノブイリ事故当時は、設立から1985年まで第4委員会の座長であったアンリ・ジャメが辞任し、替ってUKAEA 出身で、1959年以来委員会V(現在の第5委員会とは別)、次いで第4委員会でジャメの同僚だった、ジョン・ダンスタが座長になって間がなかった。ジャメは主幹委員会の副委員長に昇進して、委員長のアルゼンチン人、ダン・ベニンソンと並ぶことになった。ベニンソンは1962年から1981年までの間、第4委員会の一員だった。ジャメとベニンソンとはそれぞれ、UNSCEARで、ジャメは1964年以来、ベニンソンは1962年以来、自国を代表してもいた。ジャメはピエル・ペルランにバトンタッチする1993年まで、ずっと代表であり続けた。このペルランはICRPの第3委員会に1969年に登用され、その年にUNSCEARにも加わったのだが、第4委員会に在籍した1989年と1993年の間を除くと、1997年までずっと第3委員会の一員であり続けた。公式の図式に描かれているような一方通行の情報の流れは、こうした兼任の実態によって、否定される!

ICRP=UNSCEARという大家族の系図は知っておく価値がある

yvesw03長崎の原爆での« 黒い雨 »の降った地域内でのセシウム137の降下状況と、1986426日のヨーロッパでの降下状況とを突き合わせてみたのがこの図である。

チェルノブイリ事故の重篤性は想像を超えている。分りやすくするために、黒い雨の降った西山地区と同等の汚染になる、ロシアの2つの地区に跨る形で、比較対照の地域を設定してみた。長崎では45 km2 ほどが、最大で 30 kBq/m2程度の汚染である。一方、チェルノブイリでは汚染地域は1 000 000km2以上が、1 500 kBq/m2

を超えるまでの汚染になっている。

チェルノブイリでは、汚染の強い地域が、汚染のずっと少ない地域によって分断されていることに気付く。汚染の度合いのこのような差異は、降雨の役割をはっきり現すものである。しかし当たり前のことだが、雨が多かったか少なかったかにかかわらず、比較的近隣の地域では、より遠方で降雨が多量のセシウム137を地面に染み込ませた地域よりも、ずっと高い密度の放射能の雲が通過したのである。だから、近隣地域の住民たちは、そうした遠方の住民たちよりもずっと多くの放射性ヨウ素を吸引したのだ。ところが公機関に守られた疫学研究が病理学的な効果を説明する際には、土地の汚染線量を基盤にしている。それどころか、汚染地内にある線量の低い地域から、対照集団が取られたりさえしているのである。このような研究の結論を受け入れるわけにはいかない。 « 事故前 – 事故後 » の比較だったらこれよりは良いだろうが。

3. 甚大な危機の状況での、放射線防護への取り組みの2つの流儀

1986428日、クレムリンがチェルノブイリ4号炉の爆発があったことを認めざるをえなくなった後で、いったい何が起ったのか? さらに正確に言えばこうだ。害を既に受けた住民たち、受ける危険に曝されていた住民たち、そして害をこれから受けようとしていた人たちの運命を閉ざしたのは誰なのか?

さまざまな主導的行為の中から、2つを取り上げて比較しよう。ひとつは、ベラルーシの物理学者ヴァシーリ・ネステレンコによるものだが、彼は当時、ベラルーシの首都ミンスクに近いソスニの核研究センターで行われていた、移動式原子炉の構築を目指したPAMIRプロジェクトの責任者だった。もう一方はICRP副総裁であったアンリ・ジャメのもので、彼は委員会勧告の適用の歴史を体現する権威者であった。

yvesw04ネステレンコから始めよう。彼が事故を知ったのは28日で、クレムリンでソ連の閣僚会議(当時の最高執行機関)の軍産委員会に出席して、PAMIR の進捗状況を報告をしていた。現地との電話で得られる情報は混乱していて、19時の飛行機で彼はミンスクに飛んだ。いつもの運転手が空港に待っていたが、クルマには既に測定機器など必要なものが積み込まれていた。この42829日の夜中に、ミンスクから、発電所から40kmほどの、ブラヒンというウクライナ国境にある町まで往復する間に測定された空間ガンマ放射線をまとめたのが;この図である。ブラヒンでの測定値は正常なバックグラウンド値の3000倍ほどにあたる300 μSv/h に達していた。帰りに往きと同じ場所で測定していった数値は、往きよりもいっそう上っていた。ミンスクに戻ると、彼は研究責任者としての地位を通して動かせるだけの機関や人員を動員して、幾つもの緊急手段を取らせた。安定ヨウ素剤の配布、食品放射線量の測定管理、水浴禁止や屋外散策の制限などである。簡単に言えば彼は、原子力の仕事の責任ある地位の者ならば誰でも知っているはずの、放射線防護の基本原則を尊重してことを運ぶようにさせたのである。可能な限り多くの人が、放射線被曝を回避できるよう、一刻の遅れもなくことを進める、それが基本原則第1条である。

428日に、当時、ソ連側の放射線防護責任者であったレオニド・イリン教授と、最初に連絡を取った西側の人物の一人がアンリ・ジャメだ。ジャメにとってUNSCEARソ連代表のイリンは、そこでの同僚と言うより、ま新しいアルターエゴであったと言ってもよい。

56日にジャメは、コペンハーゲンでダン・ベニンソンを座長に開かれた最初の専門家会議に出席した。信頼できる証言によれば、「専門家グループは、雨水の使用を警告し、食品の放射線量を監視するよう勧告したが、住民の退避は提案されなかった」また、「事故後10日めの国際専門家会合は事故評価にも勧告にもたいへん控え目であった」….

では、このもっとも肝要な時点での、彼らの勧告の射程はどのようであったろうか。放射線防護の世界的権威は、物理学者ネステレンコが要求したのと同じようなさまざまな措置を勧告しただろうか。

彼らを裁くには恰好のものとして、内容の一致する2つの証言がある。

まず第1に、64日付ルモンド紙の医学欄がアンリ・ジャメ博士自身を情報源として、チェルノブイリ事故の被害を受けているヨーロッパ諸国の反応の« 協調性を取る » ための公式派遣団の機関を報じている。その中から、

ここでは彼の勧告に関する基本的な部分だけを取り上げる。

…..チェルノブイリ近くの村々の住民たち(約1000人)のうちで、風下にいた人たちは大量の放射性放出物の影響を受けている……。彼等は完璧な臨床検査を受けているし、医学的な監視の下に置かれることになるはずではあるが、こうして被曝したことが、健康上に何らかの結果をもたらす、ということを、今ここで、確信をもって言えるということではまったくない。

反対に、こうして害を受けた場所は、人が再びそこを訪れ、危険なく居住するに先立って、注意深い調査の対象となるべきであろう。….

ロシアの放射線環境学の専門家たちの決定を導くのは一つの«最適化原則»である。……

かなり遠方では、…..実際の放射能汚染が宣告がされうる。……この程度の汚染には……いかなる臨床的結果を伴うこともなく、したがって、何か特別の措置を必要としない」

ヨウ素131に対する子どもたち感受性を強調したUNSCEARの出版物や、甲状腺の被曝量は子どもの場合には1050mSv を超えてはいけないことが特記されている1965年の「ICRP 9 」に照らして、アンリ・ジャメがここに示しているような事態放置策には言葉もない。

ここで、« 臨床的結果» « 最適化原則 » という2つの表現を記憶しておいていただきたい。

ここでソ連に戻って、ヴァシーリ・ネステレンコが取った行動への反応がどうであったかを見ておこう。

429日の夕刻、ネステレンコはベラルーシ閣僚会議中央委員会総裁のミハイル・コヴァレフに面会していた。この委員会だけが、緊急事態宣言や人民強制避難を発令できるのである。ネステレンコが状況と取るべき手段を説明するのと並行して、隣室では保健大臣サフシェンカがレオニド・イリンに電話で、ネステレンコの提案を伝えていた。その前日にジャメ博士とそういう問題を議論済みだったイリンは、こう答えたのである。

「急ぐ必要はない。避難は適切でない」

ネステレンコの要求が適切だったことは、その直後、1986514日にベラルーシ共産党中央委員会にネステレンコが回付した恐るべき数値からも明らかである。

「ブラヒン、ホイニキ、ナロフリアの各地区での1986427日〜55日のガンマ放射のエネルギー水準は、50150Radに逹した模様である。…..甲状腺に吸収された線量の水準は501500Radの間にあるが、これは住民に対して定義されている、…..事故の際の最大値をすら、大幅に上回る。」

53日に、ホメリ州の査察に続いて、ネステレンコは、原発から30km圏とされていた避難区域を100km圏までに拡大するよう要求した。この提案は中央委員会に回付されて、57日の委員会で討議に掛けられた。

ダン・ベニンソンが座長を務めた国際会議の翌日に当たるその日、ヴァシーリ・ネステレンコは中央委員会の集まりから追放されたのだった。

ウクライナ閣僚会議議長のリアシュコも、広範な防護策を取った廉で、モスクワの大幹部たちの前で罵倒を受けている。

ICRP勧告が、レオニド・イリンという仲介者を経て、忠実に実行されたのである。

yvesw05写真は1970年代にICRPの会合の合間に撮られたジャメとベニンソンだ。

4. 国際組織の防護科学者の人脈

続く危機を通じて、それに対処すべき諸機関の最優先目標が、はっきり目に見える。であればこそ、突然でしかも未曾有のチェルノブイリ危機こそは、ICRPUNSCEARによって執行されている権力と、彼らの共同プロジェクトとの本質を、もっとも雄弁に暴露するものとなったのである。

このジャメとかベニンソンとかは、いったい何者であろう。彼らはどこから来たのか。どういう文化に浸って生きてきたのか。彼らの深部にある、何があっても譲れない選択肢は何だろうか。

彼らは防護学者の第3世代に属している。

1世代、パイオニアの世代は、1928727日のストックホルム会議で形成された。「X線とラジウムからの防護のための国際勧告」という最初の勧告が採択された会議である。放射線学者や放射線療法士の健康保持のためのものであった。この世代には、スエーデンの医療物理学者ロルフ・シヴァート(シーベルト1896-1966 )、そして放射線計測の専門家であったアメリカの物理学者ロリストン・テイラ(1902- 2004)という二人の著名人が含まれる 。二人はともに、ICRPの主幹委員会に、初めは委員として、その後は名誉委員として、前者は1964年まで、後者は2004年まで、休止なく座を占め続けた。

協調性と実効性を気にかけていたロリストン・テイラは、彼自身の言葉に従って言うと、グループの扱いやすさを保証するために、メンバーの数が増えないようにした。1947年には、原爆後の情勢の中で、テイラは、科学的な不確かさを一般の人たちの目の晒すと、世論による信頼が揺ぐことを恐れて、被曝限度を巡る討論を公表すべきだとする意見を葬り去っている。

2世代では、ICRPと、そして特にUNSCEARへの、マンハタン計画(アメリカの第2次大戦中の原爆開発)参加者たちのの流入が見られる。広島、長崎の存命者の研究にはオスティン・ブルス、シールズ・ウォレン、ジアキーノ・ファイラ、メリル・アイゼンブド、ジェイムズ・ニール、ジョン・ローリン、マクス・ツェレ、シャルル・デュナム、ポル・ヘンショなどが加わった。この人たちは総体として、1927年に放射線が突然変異を起こすことを発見したハーマン・マラをはじめとする遺伝学者たちの慎重な態度を攻撃した。この人たちにとっては、簡単に言えば、臨床結果が不在であるならば(今のところ発病していなければ)、被曝は無害で、予測できる健康上の影響もないと考えるべきであった。

X線とラジウムとへの秘教的信仰の中で育ち、原子爆弾の力に魅了されていた彼らは、原子力と放射性同位体の適用の中にこそ未来があると信じ込んでいた。ブレーキを掛けるなど、問題外であった。かくして、ハーマン・マラの拠り所ともなっていた、遺伝学者アルフレド・スターティヴェントによって19546月に公に表明された怖れに対して、USAEC の親玉ルイス・ストロスは真っ向から否認する議論を展開したが、その結論はこんな書き出しであった:

「根本的に言って、原子力が広く使われる世界へ人類を適合させていくという問題はたいへん真面目なものであって、だから我々は(遺伝学者一派のように)消滅しそうなほど僅かな確率的可能性について重大性を誇張するような真似はしないのである」

USAEC (米原子力委員会)の生物学と医学の部門の責任者であったオスティン・ブルスは、当時、ICRP委員会IIの一員で、また翌年にはUNSCEARの最初のアメリカ代表の一人にもなったが、「癌研究」誌に載った「科学における新なる感情論」という騒々しい論文の中で、しつこく念を押している。同じような物言いが何度も出るが、例えば、こんな文章だ:

「私は今、遺伝学者ではないが、私は医学校へ行ったし、ヒステリーの特徴的症状の一つは、視野の狭窄である……

ブルスは1946年には、トルーマン大統領に働きかけて広島にABCCを設立させた人々のうちの一人で、前にも挙げたジェイムズ・ニール、ポール・ヘンショウやシールヅ・ウォレンとともにその指導者の一人となった。

この50年代の中頃には、私が「臨床家」と読んでいる人たちが第一線に立ち、未来を準備していた。

3世代は、慎重な姿勢を貫こうとしていた遺伝学者たちがほぼ敗退したところに登場した。遺産相続人の世代である。ダン・ベニンソンとアンリ・ジャメはここに入る。2人はたいへん若くして、この名門家系に入り込んだ。

yvesw06放射性降下物を巡る世間での議論は喧騒を極めていた。原子力のイメージは不透明となった。それが彼らの一番の関心事であった。原子力の未来は、一般の人たちがその危険性をどう考えるか、放射能防護をどう考えるかに、かかっている。彼らにはそれが分っていた。彼らは、原子力への信頼を立て直すことを自らの任務としたのである。この役割に身も心も捧げ、自らの存在を投げうったのだ。

1930年生まれのベニンソンは、1954年にブエノス=アイレスで医学の学士号を取った。彼がその後2年間を過ごしたのはロレンス・リヴァモア研究所という、1940年設立で1941年にマンハタン計画に組み入れられた研究所内の、ドナー研究室(核医学生誕の地と言われている)である。博士号を手に入れ、アルゼンチン原子力委員会の要員となって、ついでにUNSCEARのアルゼンチン代表になっている。その時、彼は26歳であった。 1962にはUNSCEAR代表となり、2004年に亡くなるまで、その地位にあった。

1920年生まれのアンリ・ジャメはメード・インCEA(フランス国立の原子力研究所)の純粋培養品であって、 1951年に防護部門の責任者になっている。2年後にはICRPの新メンバーに指名されている。33歳であった。1958年には、UNSCEARのフランス代表に指名されている。

2人はともに、現在、特に福島で第一線に立っている第4世代の人々の人選に深く関係した。そうした一人が、引退間際とは言え影響力を失わずにいるアベル・フリオ・ゴンサレスだが、彼はベニンソンの直接の後継者で弟子でもある。

図では、こうした大指導者たちの間で、UNSCEARの役職とICRPの役職とを兼任する伝統が見て取れる。言うまでもなく、この人たちは皆、それ以外の数え切れない機関でも専門家とか顧問という形で役職に就いている。 特に国連関係で言えば、IAEAWHOでだ。

放射線防護の国際複合体内での世代間の遺産の引き継ぎに関して、イメージしていただけるようになったことと思う。

5. 198889惨状の実相と、新しい危機

1988年末から翌年頭にかけて、チェルノブイリでは健康状態の悪化が進んだ。子どもたちの具合はますます悪くなった。家畜も惨憺たる有様だった。人々の怒りも増した。ソ連政府も汚染マップの公表を余儀なくされた。ベニンソンとその同僚たちとが、事故以来、あらゆる講演や、また政策決定の場などで主張してきた、影響を最小限に見積った予測は、完全に信用を失墜した。

汚染した場所が豹の斑模様のように散らばった地域で、住民たちは移住を要求した。どうしたら良いのか? 前にも引用した信頼できる証言の続きを読めば、イリンやICRPの指導者たちが、どうやって問題を処理したのかが分かる。

「彼らは3年後にウィーンで彼らは、一生のスパンで計算した、地域住民に対して我慢させられる線量上限について、数値を上げる議論を非公式にしていた。彼らが閾値を定め、それを超える場合は移住させる必要がある、ということは了解された。L.イリンの提案している350 mSvという数値が受け入れられ、数日後には公表された」

この線量はICRPが勧告していた住民の被曝限度の5倍にあたる。ソ連での求心力低下の動きが、チェルノブイリの問題を巡って徹底して加速していった当時の流れの中で、数十万人の人々を危険に晒していることを覆い隠してきた嘘の数々を知って衝撃を受けた世論を前に、この基準を押し付けるには、自分たちはあまりに弱体だと、権力は感じていた。専門家たちが権威であり続けられるのも、正当性があると受け取られている限りでのことである。世論やメディアにとっていちばん目立つところにいるソ連の放射線防護担当者たちの権威は、地に墮ちていた。しかし、さらに多くの人たちを移住させるのは費用が嵩み過ぎるように思われた。何とかして、この新しい上限値を受け入れさせる必要があった。

そこで、WHOが呼び出され、この決定の正当性を人々に納得させることを職務とした、最上級の専門家たちの派遣団の任命を任される。WHOには放射線の専門的な知見などはほとんど皆無だが、しかしICRPという馴染のない名と違って、WHOのもつイメージならば人は安心する。派遣団にはダン・ベニンソン委員長と、第3委員会のピエル・ペルランというICRPのメンバー2人が含まれていた。旗持役は「WHO事務局放射線防護グループ長」というパッとしない役職の、ピータ・ウェイトというカナダ人だった。19897月のことである。

1990415日に私はミンスクでミハイル・ゲマスタイエフという物理学者と出会った。彼はある公開の講演会で、350 mSv についてベニンソンに質問をぶつけた。この基準に異を唱える質問者に向かって、ベニンソンはこう言った。

「あなた方には金がないじゃないですか。ということはつまり、避難はさせられません。だからつまり、問題なんてどこにもないということです」

こうした物言いに、いかがわしいところなどまったくない。1973年にICRPの「出版物22号」で提示され、4年の後に「ICRP勧告」と題された大部の「出版物26号」に包摂された、「最適化原則」の精神と文言を守ったものなのである。

では、勧告適用の哲学の、2つの言葉にについて論じることにしよう。

6. 「できる限り低く」と「最適化原則」

1974417日にアンリ・ジャメ博士は、放射線廃棄物管理の技術的選択肢を査定する省庁連合会議で、講演した。私も会場にいた。その日に、放射線防護の一番の問題は経済性だということが、私にはよく分かった。ジャメは、この図に示した図式を使いながら、発表の全体を、前年に発表していた「最適化原則」の説明に費した。

yvesw07副作用を伴う一つの行為を扱った、ありきたりの経済学的最適化曲線が提示されている。これは本物の « 費用対利益分析 » ではない。本物ならば、« 利益 » の縦軸に、同じ線上の « 被曝 » の縦軸の数字と向き合わせて数字を入れるはずだが、そうではなくて、より良い放射線防護のための付加費用と避け得る被害とが釣り合うように被曝の値を決めようというのである。

ベニンソンの応答をどう解釈すればよいだろうか。

より多くの人たちを避難させるには、多額の出費が必要で、それも猶予なく借入金によって賄う必要があるとされた。あてにできる利益は、3つの理由から、仮想的なものに留まるとされた。第1に、利益は何年、あるいは何十年もの後になってからのごく僅かな健康出費額分に相当するのだとされた。第2に、避け得る支出については、数値化不可能とされた。第3に、支出が避けられたからと言って、それで借入金が返せるわけではない、というようなことであった。

この「最適化原則」はどういう必要に対応しているのか。

as low as… 」の知的轍から抜け出す必要にである! この轍の最新版は、ICRPの「出版物26号」で定式化されている « ALARA (As low as reasonnably achievable合理的に達成可能な限り低く)の原則 » だ。さまざまに形を変える、一連の「as low as… 」は、1954年のICRPの「出版物1号」から既に始まっている。 医療分野で推奨されていた“lowest possible”(できる限り低く) が、ここで“as low as practicable”(実行可能な限り低く)に席を譲り、さらに1959年には、ほとんど同じ意味の “as low as is operationnaly possible”に変わった。難点は明白だ。拘束力のない形だけの規則なのである。1965年に「出版物9号」が明確化を行なった:「線量はすべて、経済的、社会的な影響を考慮に入れた上で、as low as is readily achievable (速やかに達成可能な限り低く)抑えなければならない」ということで、つまりはどういう状態であれ正当化される。「速やかに」とは、つまりは「楽に」ということだ。2001年にはALARAからALARPへの移行が議論された。PPraticable(実行可能)である。これは立ち消えになったらしい。ICRPは“as low as…” の哲学的袋小路に、迷い込んだままだ。

「最適化原則」には、ものごとを数値化さえすれば、どんな批判に対しても予め備えておけるという、知的快適性がまことに備わっている。一例ごと、実情に合わせれば良いのだ。最適化された防護mesuresの計算例は、「出版物37号・第4委員会」(1983)の中に幾つか提示されている。そうしたうちの「放射性産物廃棄に関する最適化の一手法の例」という題名一つで、批判者たちのうちのもっとも困難を厭わない者さえ、口を閉ざすということであろうか、何しろ、そこには計算に使用された(変数だの、機能係数だの、媒介変数だのといった)シンボルの一覧だけでも4ページもあるのだ。

yvesw08「最適化原則」の適用は、1976年にアンリ・ジャメの主導で創設されたCEPN(核の分野での防護査定研究中枢)の商売の中身そのものだ。CEPNのメンバーはたった4社で、フランス原子力局、フランス電力、放射線防護原子力安全研究所、AREVA社である。石綿など、放射線以外の危険分野にも、商売を拡げている。2000年代の初め頃から、ICRPCEPNに従属するようになり、自分たちではできない高度な数学計算はこの組織が頼みである。1979年以来この組織の頭脳である経済学者のジャク・ロシャルが、今ではICRPの副代表であり、彼のチームが、放射能への恐怖をモデル化する理論を携えたティエリ・シュネデルという数学者とともに、また福島エートスにも依りながら、「ICRP福島対話イニシアティブ」なるものを推進している。ジャメはここでも、遺業としてではあれ、新なる戦略的成功を収めた。CEPNICRPに包摂され、逆にICRPCEPN……

放射線防護は科学のような顔をしているが、科学ではない。荒天のただ中での舵切りである。ネステレンコは人々を護るためにできる限りのことをした。ジャメとベニンソンは、彼らの「最適化原則」を実現しようとさえ努めなかった。彼らは結局、原子力産業の将来を保全する目的に沿って、「最適化原則」を適用しただけのことである。

yvesw097. ただただ否認し続けるだけ : 原子力様の仰せの通りに!

「チェルノブイリ・フォーラム」報告書出版に先立ち、UNSCEARIAEAから幾つものコミュニケが出され、19869月のウィーン報告会議での予測と、事故の実際の帰結とが、よく一致していることを強調していた。つまり専門家たちは、自分たちの論文の中ではまったく想定しなかった状況に関して、その帰結を数値化して示す手段を1986年には手にしていたというのである!

疫学的調査結果のこの報告では、健康被害はほとんど存在しないと断言されているのだが、調査結果の中身そのものはそうなってはいない。しかし、こうした裂け目の記述に入り込むことはすまい。至高の権威が現実原則を退けているようなところで、闘いに参入しても無益である。この権威を裁くことが許されている審級などないのだ。

「臨床的結果は皆無…….」と、ICRP副委員長で、世界でもっとも原子力化されている国のUNSCEAR代表であった人物が、19866月初頭に予言しているのである。ベニンソン、イリンその他、ジャメの仲間たちはこの帆船に乗り込み、2つある船首の一方から他方へと絶えず行ったり来たりの乗り移りを続けてきた。目指す岬は50年代以来変わりがない:原子力の発展である。

チェルノブイリによって何千という数の科学論文が書かれることになったが、UNSCEARがその選り分けをした。

今、一瞬だけ、想像してみよう、委員会のただ中で、いとも長い年月、考えを共有し、論文を共著してきた仲間たち知人たちの居並ぶ中で、一大勢力が急に立ち現れて、ICRPの中枢にいる同僚たちのうちでもっとも影響力のある者たちの、チェルノブイリの甚大な健康被害を生み出す過程における責任を問うような仕事を維持していく、というようなことがあるかどうか。そうなれば、ICRP側の船首とUNSCEAR側の船首との間で魚雷を打ち込み合うようなものだろうか…….そして小舟は沈みかけるであろうか。

実際にそんなことがあったと仮定してみよう。国際的な放射線防護は乗組員もろとも沈んでいたことだろう。政治エリートやオピニオンリーダたちが掲げてきた原子力の有用性や無害性への信頼は、決定的に馬鹿にされることになろう。産業発展モデルの支柱が一つ、崩れ落ちることになろう。EPR欧州加圧水型炉)よ、高速増殖炉よ、核融合よ、さようならだ! チェルノブイリどころではない惨事ではないか!

しかし、国際原子力村には、見渡したところゴルバチョフはいないようだ。創業の父たちは、事業の行く末に熟考を払っていた。彼らの創造物はチェルノブイリの試練を乗り超えただけでなく、それを通じていっそう強くなりさえした。福島危機の運営がその証左である。

彼らは劫を背負った。存在し続けるには、一丸となって真実を否認し続ける以外にないのである。「原子力様の仰せの通りに!」

シンポジウム:全文公開/「吉田調書」から見えてきたもの


澤井正子

政府事故調によって作成された元福島第一原子力発電所長・吉田昌郎氏(故人)のヒアリング記録(いわゆる「吉田調書」)が公開されました。 3/11の地震発生直後から事故対応の陣頭指揮を執った吉田所長が語った貴重な記録です。この「調書」から読み取れることは何か、過酷事故への対応は可能なのか、福島第一原発の事故原因を検討してきた元国会事故調のメンバーを中心に議論します。

10月15日(水)16:30~18:30
衆議院第1議員会館多目的ホール

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/kokkaimap.htm

▽パネリスト
佐藤 暁:サトウ サトシ
(原子力コンサルタント、元GE技術者)

伊東良徳:イトウ ヨシノリ
(弁護士、福島第一原発1号機電源喪失は津波襲来前であることを究明)

上澤千尋:カミサワ チヒロ
(原子力資料情報室、原子炉・事故問題担当)

▽ゲストパネリスト
添田孝史:ソエタ タカシ
(サイエンスライター、元朝日新聞科学医療部記者、東京電力の津波対策を調査)

▽司会進行:
田中三彦(サイエンスライター、元国会事故調委員)

▽主催:もっかい事故調*
[*国会事故調において事故の原因調査を担当したメンバー
(元委員および元協力調査員)の有志がつどい、事故調査を継続中です。]

▽【連絡・問い合わせ先】
澤井正子:090-4422-5394  sawai@cnic.jp

南相馬市特定避難勧奨地点解除! 抗議の住民たちが国会に!


満田夏花

福島第1原発事故に伴い特定避難勧奨地点に指定された南相馬市内の152世帯について、政府は早ければ10月中にも指定を解除することを南相馬市議会全員協議会に伝えました。
しかし、この解除にはさまざまな問題があります。
・南相馬市の特定避難勧奨地点の近傍では今なお、汚染が続いている。
・空間線量率のみの指定および指定解除
・住民の意向無視の一方的な解除

南相馬市の住民が避難指定解除に反対して国会にやって来ます。
内閣府・経産省への要請行動、記者会見、院内集会、首相官邸付近でのデモ参加など盛りだくさんの行動を行います。
是非、多くのみなさまの応援・ご参加をよろしくお願いします。

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南相馬市特定避難勧奨地点解除!
汚染地への居住の強要に抗議する集会

http://hinan-kenri.cocolog-nifty.com/blog/
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【理由】空間線量率が20ミリシーベルトを下回った
【時期】早ければ10月中

しかし、ホットスポットの指定であるにも関わらず
・全世帯の測定は終わっていません。
・住民全員にも説明がなされていません。

この地域は山を境に飯館村、浪江町に隣接している特に汚染の酷い地域です。また、多くは妊婦・子どもがいた世帯です。地域住民は、子どもたちを守ろうと、国の測定基準に沿った測定を続け、解除反対の署名を集め、南相馬市の汚染実態を南相馬市、福島県、国に対して適切な対応を訴えてきました。

今回の政府の措置に対し、「南相馬・避難勧奨地域の会」が上京し、政府交渉および窮状を訴える集会を開きます。

住民が測定したデータ・各所に訴えてきた内容・放射能汚染の実態の新事実 を公表します。およそ知られていない南相馬市の放射能汚染の状況を広く世間の皆さまや、南相馬市から首都圏に避難している避難者に伝える集会です。ぜひご参加ください。

日時: 10月10日(金)
場所 : 参議院議員会館B104
14:00~15:30 経済産業省への申し入れ・政府交渉(調整中)
15:30~17:00 一般向け集会
18:30~19:00 参議院議員会館前で、アピール行動 どなたでも参加可
※抗議行動にご参加の方は、18:30 参院議員会館前にお集まり下さい

資料代:500円

主催 : 南相馬・避難勧奨地域の会
共催 : 福島老朽原発を考える会(フクロウの会)、FoE Japan、
避難・支援ネットかながわ(Hsink)、ひまわりプロジェクト南相馬
問合せ info.hsink@gmail.com(避難・支援ネットかながわ)