2014年10月12日:福島第一の近くまで

イヴ・ルノワル

この文章は福島市野田町界隈に続くものです。

1. グループ

私たちは5人だ。藤本智子(さとこ)とイヴ・シュヴァリエ、マルチン・ヴァルタ、竹内雅文と私である。全員が写真かヴィデオを撮っているのだが、私だけは撮影を諦めていた。カメラの記録カードが前夜に故障し、信頼できなかったからである。雅とマルチンと私とは、各自、線量計を携帯していた。11台、表示のし方と、多分、感度も異なるので、その場、その場での数値にも違いがある。数値を比べあうのは、無意味なことだ。

写真が撮れないので、私は移動の間ずっと車内のガンマ線量を測り続けることで満足することにした。通過地点の名称を雅が言ってくれる。測定器は、スイッチを入れると25秒後に数値を返す。私は小型のメモ用紙に値を書き入れ、必要に応じて位置情報を加える。こうやって私は休止なく409地点の数値を集め、行程の放射能の状態を図にすることができた。

11つの数値は、バス、次いで乗用車内での、さらに幾つかの特徴的な場所では停車地点の屋外での、25秒間の空間線量の平均値を示している。計測の仕方は統一した。車内では測定器を窓のそばで地面に対して45°の角度に向けて保持している。車内の値と車外での値に大差はない。このことは、腰のベルトの位置での測定で確認した。

こうした結果から一般論を導くのは慎重にすべきだ。停車時のものを除けば、計測値はすべて路上ないしは路傍の空間線量である。しかし、路上での計測値と、少し離れた地点、打ち捨てられた家屋の周辺であるとか、フレコンに入った廃棄物の集積場の周辺での値との間に、大した違いはなかった。汚染の管理の目指すところがはっきり目に見えない以上、こうした違いの無さというのも、一般化して捉えるべきではない。

2. 全体図

y-r01バスは国道114号を通って福島から私たちを南相馬まで乗せていった。途中、川俣で数分間の停車がある。南相馬が近づくと海岸平野の風景になるが、それまではずっと山の景色である。

地図に書き入れてあるのは、今回の«イニシエーション»の後半だが、その導師はNPO法人フロンティア南相馬の草野良太さんであった。

yvesminamisoma基本的な標識点を記入しておいた。違う縮尺でもっと拡大して見れば、それぞれの場所の様子がもっと良く分かる。

次に測定値をまとめて図示してあるが、それぞれの測定地点を上の図と照らし合わせられるようにしてある。

___往路のグラフ__________南相馬(原町)までの復路
yveswb3. 福島市と南相馬(原町)との間の特記事項

放射性降下物の量が甚大な地域を除染するという決定は、地形の壁にぶつかっている。坂が急峻になり、谷が曲りくねるに従って、空間放射線量はカオスの様相となり、1989年に旧ソ連内にICRPが設定した「一般住民の限度値」を超えた高い値を示す。しかし、ちょこっとでも空地があればどこでも構わず、といった感じで積まれているフレコンを見れば、これでも空間線量はだいぶ下ったか、ないしは平準化した後なのだと考えるしかない。バスから見た光景は、仰天の連続であった。家々の直前の花壇までもをフレコンで一杯にするのはまさに愚行である。住民たちの至近の環境を、除染による産物が、毒しているのである….。ウブな質問をひとつ 、ぶつけてみたくなった。「住んでいる人たちの防護を蔑ろにしてまで除染しなければならないほど重要な場所が、いったいどこにあるのか?」と。残念ながら、この山中を縫い曲る道筋をバスはあっと言う間に通過してしまい、誰も写真を撮らなかった。下のは似たような場所での写真だが、前述の現場での印象はかなり薄らぐ。

y-r04y-r05行程の間、傷ましい、悲しい思いでいっぱいだったが、反抗心も涌いた。森に覆われた山々の素晴しい景色が、家々の入口にまでごく当たり前のような顔をして山積みされている除染ゴミによって痛めつけられ、汚されている。放射能は目に見えず臭いもないが、どこにでもあること、そして20113月の福島第1の爆発以来、この地域は放射能の持続的な支配下に置かれてしまっていることが、この青や黒の袋が思い起させる。この地に住み続けている人たちは、自分たちの生活条件が陥ってしまった今の状態を、どういう言葉で表現しているのだろうか。この道を通って旅をする人たちは、来る日も来る日も目に飛び込んでくる光景に、どんな思いであろうか。陽光や風雨に曝されるプラスティックの袋の強度に、将来がかかっているということを、どう考えたら良いのだろう。中のゴミに相変わらず含まれている放射性物質の半減期が30年だというのに、こうした袋はいったいどれだけ持つのだろう。この酷い光景を繰り返し見せつけられるのは、実に傷ましい。

パノラマが開けた場所では、袋の置き場もその分だけ広大になる。何ということだ。

山間部では置いておける量が限られてくるので、集められた袋は手近で作業も楽な小さな面積の場所を除染したものに限られているように思われる。勾配のある場所はほとんど手付かずのままだし、雨の降る度に放射性物質を含んだ粒子が窪地へ運び込まれ、取り除いて袋に詰めた分も、じきに元通りになってしまう。

平地では、除染ゴミと生活の場とが網の目模様を織りなしている。

y-r06y-r07ここに見える除染地域のフレコン置き場用地には、まだまだ空きがいっぱいある。除染員たちのシジフォスの神話のような作業は、まだ当分は続くわけだ。

間もなく、バスは南相馬(原町)に到着した。

4. 南相馬(原町)から10km地点まで

測定器から得られる情報に疑問の余地はない。この海に近い、多くの部分が津波の被害を受けた地域では、先刻通ってきた山間地域よりもセシウムの量はずっと少ない。このあたりでは、降雨はずっと弱かったに違いない。海から風が吹いている時には、そうなるのが通常である。その風が内陸に入り込んで、隆起部にぶつかると、空気の塊がもち上げられて凝縮する。そして冷やされるのである。

しかし、そうであるからと言って、放射性の霧がこのあたりを通過した時に、住民たちの被曝は少なかったということにはならないのである。住民たちは放射性のヨウ素を吸い込んでしまい、それは健康上の刻印として、一生ついて回るのである。

強制避難の運営は、ガイガーカウンタが刻々と与えてくれるデータとの突き合わせに耐えられない。行政の決定によって空家になったに違いない、捨てられた住居群を通ったが、パリで私の住んでいる、石灰の壁に囲われた古いアパルトマンよりも、空間ガンマ線量は低い。ここに住んでいた人たちは昼間は家に戻ることが許されているが、夜を過ごすのは禁止されているとのことであった。どこにそういう政策の正当性があるというのか。

最近まで立入禁止標識のあった10km地点の少し手前に、津波によって破壊されたままの家屋が片づけられないまま残っていた。ここも南相馬や津波の跡がきれいに片付けられている地域と同じくらい線量が低いし、そうした地域を下回る場合すらあるのに、どうしてなのだろう。付近の空撮と、そうした家のうちの一軒の写真とをご覧いただきたい。

y-r08y-r09y-r10y-r11

囲いのついた、膨大な面積の除染ゴミ置き場が目についた。グーグルアースの空撮に見当らないところからすると、造られて間もないのだろう。青い袋と、黒い袋とが、分けて積まれている。この2色 の仕訳は、どういう基準によるのであろうか。今、津波が来れば、これらもすべて押し流されて、間近にある海へと運ばれていくことになる。あたかも、地球に 働いているさまざまな力も、当局者にとって必要な間だけはこの地に手を付けないでいてくれるだろうとでも言うのであろうか。いったい、どれだけの期間を見込んでいるのか。明かに一時凌ぎのこういう方策は、どんな見通しに立って進められているというのか。

y-r12高い放射線量の地帯に今や私たちはかなり近づいている。打ち捨てられた小集落を幾つか通過するが、放射線量は福島市よりも低い。事故のあった発電所の間近を通っている国道6号は、つい最近、通行禁止が解除された。日曜日にしては、通行量も多い。

国道は10kmの障壁に向かっている。ここの放射能は福島市と同じ程度である。ここで見た光景を2点。

y-r15y-r165. 10kmの境界: 高い放射能の地帯

立っている警官たちがもはや象徴的な存在でしかなくなっている境界地点を、速度を落すこともなく通り抜けると、いとも急速に放射能は増加していった。第2章に掲げたグラフに示されているように、今や自然な状態の10倍ほどの線量であり、福島第1のすぐ近くでは100倍ほどにもなった。

この国道は停止せずに通過するしかないのだが、道路沿いは注意深く除染されているに違いなく、この地帯でも道から離れた場所での数値に比べて、道路での数値は大幅に低いのだろうと仮定するのが正しいのだろう。粗面コンクリート平板で補強された急坂が100m200m続いた場所で、もし速度を落して通ることができていたら、そうした点についてもっと確かな考えを持つことができたことだろう。そこで計器は突如、乱舞したのである。粗面コンクリートは、ここにあるもののように老化しているものは特にそうだが、細かい穴が無数に存在し、そこに入り込んだセシウムの粒子は完全に封じ込められてしまって、除染などは不可能である。これを測定できれば、この場所と近辺との、放射性降下物の一般化可能な情報が得られたことだろう。けれども後続車両が迫っており、運転してくれている方に速度を落すように説得する時間など、ある筈もなかった。

福島第1発電所へ向う道は封鎖されていた。10Kmほど南にある福島第2への道は開いていたので私たちは進入していったが、発電所入口では警官の検問態勢が敷かれ、私たちは引き返すしかなかった。福島第2の入口では空間ガンマ線量ははっきり低下した。福島市周辺の畑地で計測した値とほぼ同じだった。

次の写真は10km境界線

y-r17次の写真は福島第2の入口の検問所だが、道の先に発電所の建物の一つが見えている。

y-r186. 高い放射線の地帯の南の出口にある石炭火力付近で停止

福島第1を過ぎた後では、空間放射線量は急速に低下していた。

福島第2から数キロのところには、火力発電所がある。ここは津波で大きく損壊したが、短時日で修復している。煙突から出る煙は見えない。日本の石炭火力はどこでもそうだが、燃焼と煙濾過に先端的な技術を使っているのである。空間放射線量は福島の町中と同程度だ。

写真は帰路の前にちょいと一休みした時のものである。右から、草野良太、藤本智子、イヴ・シュヴァリエ

y-r20広野火力発電所

y-r197. 地方道35号を経由から再び国道6号へ入っての帰路

運転の草野さんは、帰路の一部を地方道35号経由にした。この山寄りの道筋に相当する部分のグラフを見れば、並行している海岸寄りの国道6号に比べて、放射線被曝量がほぼ倍になっているのが分かる。地形が持ち上がれば直ちに降雨が強さを増す。その結果が明かである。言うまでもなく、道路周辺は念入りに除染されていることであろう。

原町駅に戻る前に、私たちは多少迂回をして福島第1の北30kmにある原町火力発電所の近くに車を停めた。空撮には、その構内の港に石炭運搬船が見える。その南に、以前はたいへんに好評だったサーフィン場があるが、今は利用する人はいない。写真には、波がくっきりと写っている。

y-r21y-r23ここでもやはり、煙は出ていないように見える。

私たちは海を眺め、ここの海岸にもまた除染ゴミの袋が無造作に積まれているのに注意していた。そこに首から名札を下げた陽気な男性が近づいてきた。お互いの自己紹介の後、会話が始まった。

y-r26竹内雅文、イヴ・ルノワル、草野良太、藤本智子、イヴ・シュヴァリエ、そして撮影者マルティン・ヴァルタの影。

y-r31傾斜に馴れ親しんだ人物の撮影による、マルティン・ヴァルタ

y-r27男性は森林の除染作業者だ。何とも膨大な事業である。森林の除染作業者である。彼の話から理解したことを、なるべく捻じ曲げないように整理すると、こんな具合になる。

破局的惨事の後、政府は再興の論理に従って一か八かの決定をした。放射能に強度に汚染された地域の全面除染である。事故を起した発電所自体を«きれいにする»には少なくとも400年はかかるから、時間が足りないということはない。

そこで政府は、放射性降下物に汚染されている地域の大半を占める森林を、浄化する財政措置を決定した。

彼の従事している作業の元請け企業は、明らかにおいしい契約を結んだ。企業は、生えている木を取り除くことに対して支払いを受ける。円相場が下落しているので、日本製の木材には需要がある。木は汚染されていても、それは表面だけだ。表皮を取り除きさえすれば、内側の材は丸ごと売り物にできる。倒れている木は、周知のように、じきにカミキリムシの餌になり、腐敗する。商品価値などはない。そういうものは、現場に残しておいて構わないことになっている。こんなボロい儲け話は誰も夢想だにしないことだろう。

こういう議論が真相から外れていないとするならば、福島の放射性となった森林に向かって、そのうち大勢が押しかけることになりそうだ。

最後になるが、福島事故とその帰結についてのイニシエーションの旅の間中、私たちのゴマであり、通訳であった二人、藤本智子と竹内雅文に、熱くお礼を申しあげたい。

原町駅前の雅

y-r28藤本智子(福島市の佐々木慶子宅にて)

satoko-chezK福島事故は日本を揺がした。物言わぬ多数者たちは事故に幕を引き、「普段の」関心事に戻ったかのように見える。

福島事故は民と指導者と公権力総体との間の暗黙の合意の根底を突き崩した。上から下まであらゆる階梯の公権力が、広い範囲にわたって責任性を喪失している。移住させられた人々に対する行政の態度のほぼ全体にわたって、欲得づくや棄民政策が顕著である。

日本の原子力保安当局は、陣頭に立つことなく机に囓りつき、名誉を失なった。前代未聞のことである。ウィンズケール、スリーマイル、チェルノブイリの事故に際して、イギリス、アメリカ、そしてソ連の原子力保安当局者たちは、救えるものは救おうと、危険を冒して陣頭に立った。生命を賭した。この恥ずべき不在の報酬はこうである:IAEAICRPやその輩下が、我が物顔に、呵責なくのさばることになったのだ。

技術官僚支配と勇気ある人々との間の闘いが、始まろうとしている。


One thought on “2014年10月12日:福島第一の近くまで

  1. お疲れ様でした~ハードスケジュールで大変でしたね。
    イブさんの話はとても興味深く、もっと、ゆっくり時間があれば伺いたかったです。
    土壌の測定方法も実際に行って教えていただきたかったですね。

    通訳のお二人に感謝。

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