2014年10月12日:福島第一の近くまで


イヴ・ルノワル

この文章は福島市野田町界隈に続くものです。

1. グループ

私たちは5人だ。藤本智子(さとこ)とイヴ・シュヴァリエ、マルチン・ヴァルタ、竹内雅文と私である。全員が写真かヴィデオを撮っているのだが、私だけは撮影を諦めていた。カメラの記録カードが前夜に故障し、信頼できなかったからである。雅とマルチンと私とは、各自、線量計を携帯していた。11台、表示のし方と、多分、感度も異なるので、その場、その場での数値にも違いがある。数値を比べあうのは、無意味なことだ。

写真が撮れないので、私は移動の間ずっと車内のガンマ線量を測り続けることで満足することにした。通過地点の名称を雅が言ってくれる。測定器は、スイッチを入れると25秒後に数値を返す。私は小型のメモ用紙に値を書き入れ、必要に応じて位置情報を加える。こうやって私は休止なく409地点の数値を集め、行程の放射能の状態を図にすることができた。

11つの数値は、バス、次いで乗用車内での、さらに幾つかの特徴的な場所では停車地点の屋外での、25秒間の空間線量の平均値を示している。計測の仕方は統一した。車内では測定器を窓のそばで地面に対して45°の角度に向けて保持している。車内の値と車外での値に大差はない。このことは、腰のベルトの位置での測定で確認した。

こうした結果から一般論を導くのは慎重にすべきだ。停車時のものを除けば、計測値はすべて路上ないしは路傍の空間線量である。しかし、路上での計測値と、少し離れた地点、打ち捨てられた家屋の周辺であるとか、フレコンに入った廃棄物の集積場の周辺での値との間に、大した違いはなかった。汚染の管理の目指すところがはっきり目に見えない以上、こうした違いの無さというのも、一般化して捉えるべきではない。

2. 全体図

y-r01バスは国道114号を通って福島から私たちを南相馬まで乗せていった。途中、川俣で数分間の停車がある。南相馬が近づくと海岸平野の風景になるが、それまではずっと山の景色である。

地図に書き入れてあるのは、今回の«イニシエーション»の後半だが、その導師はNPO法人フロンティア南相馬の草野良太さんであった。

yvesminamisoma基本的な標識点を記入しておいた。違う縮尺でもっと拡大して見れば、それぞれの場所の様子がもっと良く分かる。

次に測定値をまとめて図示してあるが、それぞれの測定地点を上の図と照らし合わせられるようにしてある。

___往路のグラフ__________南相馬(原町)までの復路
yveswb3. 福島市と南相馬(原町)との間の特記事項

放射性降下物の量が甚大な地域を除染するという決定は、地形の壁にぶつかっている。坂が急峻になり、谷が曲りくねるに従って、空間放射線量はカオスの様相となり、1989年に旧ソ連内にICRPが設定した「一般住民の限度値」を超えた高い値を示す。しかし、ちょこっとでも空地があればどこでも構わず、といった感じで積まれているフレコンを見れば、これでも空間線量はだいぶ下ったか、ないしは平準化した後なのだと考えるしかない。バスから見た光景は、仰天の連続であった。家々の直前の花壇までもをフレコンで一杯にするのはまさに愚行である。住民たちの至近の環境を、除染による産物が、毒しているのである….。ウブな質問をひとつ 、ぶつけてみたくなった。「住んでいる人たちの防護を蔑ろにしてまで除染しなければならないほど重要な場所が、いったいどこにあるのか?」と。残念ながら、この山中を縫い曲る道筋をバスはあっと言う間に通過してしまい、誰も写真を撮らなかった。下のは似たような場所での写真だが、前述の現場での印象はかなり薄らぐ。

y-r04y-r05行程の間、傷ましい、悲しい思いでいっぱいだったが、反抗心も涌いた。森に覆われた山々の素晴しい景色が、家々の入口にまでごく当たり前のような顔をして山積みされている除染ゴミによって痛めつけられ、汚されている。放射能は目に見えず臭いもないが、どこにでもあること、そして20113月の福島第1の爆発以来、この地域は放射能の持続的な支配下に置かれてしまっていることが、この青や黒の袋が思い起させる。この地に住み続けている人たちは、自分たちの生活条件が陥ってしまった今の状態を、どういう言葉で表現しているのだろうか。この道を通って旅をする人たちは、来る日も来る日も目に飛び込んでくる光景に、どんな思いであろうか。陽光や風雨に曝されるプラスティックの袋の強度に、将来がかかっているということを、どう考えたら良いのだろう。中のゴミに相変わらず含まれている放射性物質の半減期が30年だというのに、こうした袋はいったいどれだけ持つのだろう。この酷い光景を繰り返し見せつけられるのは、実に傷ましい。

パノラマが開けた場所では、袋の置き場もその分だけ広大になる。何ということだ。

山間部では置いておける量が限られてくるので、集められた袋は手近で作業も楽な小さな面積の場所を除染したものに限られているように思われる。勾配のある場所はほとんど手付かずのままだし、雨の降る度に放射性物質を含んだ粒子が窪地へ運び込まれ、取り除いて袋に詰めた分も、じきに元通りになってしまう。

平地では、除染ゴミと生活の場とが網の目模様を織りなしている。

y-r06y-r07ここに見える除染地域のフレコン置き場用地には、まだまだ空きがいっぱいある。除染員たちのシジフォスの神話のような作業は、まだ当分は続くわけだ。

間もなく、バスは南相馬(原町)に到着した。

4. 南相馬(原町)から10km地点まで

測定器から得られる情報に疑問の余地はない。この海に近い、多くの部分が津波の被害を受けた地域では、先刻通ってきた山間地域よりもセシウムの量はずっと少ない。このあたりでは、降雨はずっと弱かったに違いない。海から風が吹いている時には、そうなるのが通常である。その風が内陸に入り込んで、隆起部にぶつかると、空気の塊がもち上げられて凝縮する。そして冷やされるのである。

しかし、そうであるからと言って、放射性の霧がこのあたりを通過した時に、住民たちの被曝は少なかったということにはならないのである。住民たちは放射性のヨウ素を吸い込んでしまい、それは健康上の刻印として、一生ついて回るのである。

強制避難の運営は、ガイガーカウンタが刻々と与えてくれるデータとの突き合わせに耐えられない。行政の決定によって空家になったに違いない、捨てられた住居群を通ったが、パリで私の住んでいる、石灰の壁に囲われた古いアパルトマンよりも、空間ガンマ線量は低い。ここに住んでいた人たちは昼間は家に戻ることが許されているが、夜を過ごすのは禁止されているとのことであった。どこにそういう政策の正当性があるというのか。

最近まで立入禁止標識のあった10km地点の少し手前に、津波によって破壊されたままの家屋が片づけられないまま残っていた。ここも南相馬や津波の跡がきれいに片付けられている地域と同じくらい線量が低いし、そうした地域を下回る場合すらあるのに、どうしてなのだろう。付近の空撮と、そうした家のうちの一軒の写真とをご覧いただきたい。

y-r08y-r09y-r10y-r11

囲いのついた、膨大な面積の除染ゴミ置き場が目についた。グーグルアースの空撮に見当らないところからすると、造られて間もないのだろう。青い袋と、黒い袋とが、分けて積まれている。この2色 の仕訳は、どういう基準によるのであろうか。今、津波が来れば、これらもすべて押し流されて、間近にある海へと運ばれていくことになる。あたかも、地球に 働いているさまざまな力も、当局者にとって必要な間だけはこの地に手を付けないでいてくれるだろうとでも言うのであろうか。いったい、どれだけの期間を見込んでいるのか。明かに一時凌ぎのこういう方策は、どんな見通しに立って進められているというのか。

y-r12高い放射線量の地帯に今や私たちはかなり近づいている。打ち捨てられた小集落を幾つか通過するが、放射線量は福島市よりも低い。事故のあった発電所の間近を通っている国道6号は、つい最近、通行禁止が解除された。日曜日にしては、通行量も多い。

国道は10kmの障壁に向かっている。ここの放射能は福島市と同じ程度である。ここで見た光景を2点。

y-r15y-r165. 10kmの境界: 高い放射能の地帯

立っている警官たちがもはや象徴的な存在でしかなくなっている境界地点を、速度を落すこともなく通り抜けると、いとも急速に放射能は増加していった。第2章に掲げたグラフに示されているように、今や自然な状態の10倍ほどの線量であり、福島第1のすぐ近くでは100倍ほどにもなった。

この国道は停止せずに通過するしかないのだが、道路沿いは注意深く除染されているに違いなく、この地帯でも道から離れた場所での数値に比べて、道路での数値は大幅に低いのだろうと仮定するのが正しいのだろう。粗面コンクリート平板で補強された急坂が100m200m続いた場所で、もし速度を落して通ることができていたら、そうした点についてもっと確かな考えを持つことができたことだろう。そこで計器は突如、乱舞したのである。粗面コンクリートは、ここにあるもののように老化しているものは特にそうだが、細かい穴が無数に存在し、そこに入り込んだセシウムの粒子は完全に封じ込められてしまって、除染などは不可能である。これを測定できれば、この場所と近辺との、放射性降下物の一般化可能な情報が得られたことだろう。けれども後続車両が迫っており、運転してくれている方に速度を落すように説得する時間など、ある筈もなかった。

福島第1発電所へ向う道は封鎖されていた。10Kmほど南にある福島第2への道は開いていたので私たちは進入していったが、発電所入口では警官の検問態勢が敷かれ、私たちは引き返すしかなかった。福島第2の入口では空間ガンマ線量ははっきり低下した。福島市周辺の畑地で計測した値とほぼ同じだった。

次の写真は10km境界線

y-r17次の写真は福島第2の入口の検問所だが、道の先に発電所の建物の一つが見えている。

y-r186. 高い放射線の地帯の南の出口にある石炭火力付近で停止

福島第1を過ぎた後では、空間放射線量は急速に低下していた。

福島第2から数キロのところには、火力発電所がある。ここは津波で大きく損壊したが、短時日で修復している。煙突から出る煙は見えない。日本の石炭火力はどこでもそうだが、燃焼と煙濾過に先端的な技術を使っているのである。空間放射線量は福島の町中と同程度だ。

写真は帰路の前にちょいと一休みした時のものである。右から、草野良太、藤本智子、イヴ・シュヴァリエ

y-r20広野火力発電所

y-r197. 地方道35号を経由から再び国道6号へ入っての帰路

運転の草野さんは、帰路の一部を地方道35号経由にした。この山寄りの道筋に相当する部分のグラフを見れば、並行している海岸寄りの国道6号に比べて、放射線被曝量がほぼ倍になっているのが分かる。地形が持ち上がれば直ちに降雨が強さを増す。その結果が明かである。言うまでもなく、道路周辺は念入りに除染されていることであろう。

原町駅に戻る前に、私たちは多少迂回をして福島第1の北30kmにある原町火力発電所の近くに車を停めた。空撮には、その構内の港に石炭運搬船が見える。その南に、以前はたいへんに好評だったサーフィン場があるが、今は利用する人はいない。写真には、波がくっきりと写っている。

y-r21y-r23ここでもやはり、煙は出ていないように見える。

私たちは海を眺め、ここの海岸にもまた除染ゴミの袋が無造作に積まれているのに注意していた。そこに首から名札を下げた陽気な男性が近づいてきた。お互いの自己紹介の後、会話が始まった。

y-r26竹内雅文、イヴ・ルノワル、草野良太、藤本智子、イヴ・シュヴァリエ、そして撮影者マルティン・ヴァルタの影。

y-r31傾斜に馴れ親しんだ人物の撮影による、マルティン・ヴァルタ

y-r27男性は森林の除染作業者だ。何とも膨大な事業である。森林の除染作業者である。彼の話から理解したことを、なるべく捻じ曲げないように整理すると、こんな具合になる。

破局的惨事の後、政府は再興の論理に従って一か八かの決定をした。放射能に強度に汚染された地域の全面除染である。事故を起した発電所自体を«きれいにする»には少なくとも400年はかかるから、時間が足りないということはない。

そこで政府は、放射性降下物に汚染されている地域の大半を占める森林を、浄化する財政措置を決定した。

彼の従事している作業の元請け企業は、明らかにおいしい契約を結んだ。企業は、生えている木を取り除くことに対して支払いを受ける。円相場が下落しているので、日本製の木材には需要がある。木は汚染されていても、それは表面だけだ。表皮を取り除きさえすれば、内側の材は丸ごと売り物にできる。倒れている木は、周知のように、じきにカミキリムシの餌になり、腐敗する。商品価値などはない。そういうものは、現場に残しておいて構わないことになっている。こんなボロい儲け話は誰も夢想だにしないことだろう。

こういう議論が真相から外れていないとするならば、福島の放射性となった森林に向かって、そのうち大勢が押しかけることになりそうだ。

最後になるが、福島事故とその帰結についてのイニシエーションの旅の間中、私たちのゴマであり、通訳であった二人、藤本智子と竹内雅文に、熱くお礼を申しあげたい。

原町駅前の雅

y-r28藤本智子(福島市の佐々木慶子宅にて)

satoko-chezK福島事故は日本を揺がした。物言わぬ多数者たちは事故に幕を引き、「普段の」関心事に戻ったかのように見える。

福島事故は民と指導者と公権力総体との間の暗黙の合意の根底を突き崩した。上から下まであらゆる階梯の公権力が、広い範囲にわたって責任性を喪失している。移住させられた人々に対する行政の態度のほぼ全体にわたって、欲得づくや棄民政策が顕著である。

日本の原子力保安当局は、陣頭に立つことなく机に囓りつき、名誉を失なった。前代未聞のことである。ウィンズケール、スリーマイル、チェルノブイリの事故に際して、イギリス、アメリカ、そしてソ連の原子力保安当局者たちは、救えるものは救おうと、危険を冒して陣頭に立った。生命を賭した。この恥ずべき不在の報酬はこうである:IAEAICRPやその輩下が、我が物顔に、呵責なくのさばることになったのだ。

技術官僚支配と勇気ある人々との間の闘いが、始まろうとしている。

福島市野田町界隈


イヴ・ルノワル

2014年10月12日、福島市野田町の佐々木慶子宅近辺からの、イヴ・ルノワルによる報告

1。はじめに

藤本智子とイブ・シュヴァリエ、竹内雅文、マルティン・ヴァルタと私とは、荒川の際に建っている佐々木慶子さんの大邸宅に厄介になっていた。この川は、福島市の東部をほぼ南北に流れている阿武隈川の、支流の一つである。

荒川は市街の中心部を迂回して南側を流れ、野菜畑や稲田や果樹園に水を運んでいる。慶子さんの家は新幹線の駅から遠くなく、田畑のある地帯から見れば東の端になる。下の地図では、左上のあたりにある樹木のマークのあたりである。

y-n01

前日に農道の細い網の目を通って2,5kmと少し東に行って、全体を眺めた。四角く細かな区画に区切られた耕地に混って、まだ工事が終っていなくて、グーグルアースの衛星写真にも載っていない、新しい太陽光発電設備の敷地があり、すぐ近くには、若い人たちのためのサッカーと野球の練習場もある。

まず、家の周辺部の放射能を測ったが、その結果に私は困惑した:
・家の前の路上で、0,35 μSv/h
・果樹園へと続く道の通っている土手に抜ける、家と隣家との間の小径で、0,45 μSv/h
・家とこの土手道との間の斜面では、0,5 〜0,75 μSv/h
使用計器は、ベルラド研究所から貸してもらっている、検出部の4本あるソスナである(1計測に25秒)

2。 4個所

道に沿って4個所で計測をしたが、その位置は下の航空写真に赤い数字で示してある。

y-n02計測器は腰のベルトの位置、つまり地上から約1mで水平に保持している。だから、4本の検出部は地面から正確に2πのステラジアン角に従って到来するガンマ線を記録する。空から来るガンマ線も同じステラジアン角に従う。

計測した値から0,12 μSv/h(自然放射線)を差し引くと、土中にあるセシウム137からのガンマ線がどれだけかが分る。

時速約6-7 km の早足で歩きながらの計測による平均値になる。1計測は25秒である。50mほどの間における、ガンマ放射空間線量の平均値が得られることになる。

窪地などに流れが運んできた放射能が溜って、ホットスポットになっているが、人が通常まず近づかないような場所の場合には、考慮から外すことにした。

赤字で番号を振った4個所にはそれぞれ、次のような特徴がある。
1 左にはほぼ建設を終えた600 kW の太陽光発電所がある。右には野球場がある。
2 数字の下になるが、道の反対側は野球場で、表面は土である。
3 数字の左になるが、高圧線の鉄塔が立っている。周囲は田畑や果樹園のある典型的な光景である。
4 数字の右に一種の狭い橋(水道施設)が荒川を跨ぎ、そのまま真っ直ぐ、真北の位置にあるのが、屋根に太陽光設備を載せた佐々木慶子宅で、道に沿って建っている。

畑作も稲作も、普通に行なわれていた。林檎の収穫が始まっていて(梨や桃は既に収穫を終えていた)、稻藁の束は積み上げられ、野菜畑の手入れも行なわれていた。土曜日には、高校生たちがサッカーをしていた。日曜の朝、9時少し前、野球のチームが試合の準備を終えるところだった。土手道には、人々がジョギングをし、散歩をしていた。若い人たちが自転車に乗って来ていた。

3。 写真と計測
3.1 第1地帯

y-n03北西の平地は現在、太陽光発電所になっている。右には野球場があって、隅には、道に挾まれて更衣室がある。太陽光受光部の並ぶあたりでは放射能の計測値は0,25 μSv/hだが、砕石が20cmほどの厚さに敷かれていることが、影響していよう。野球場では0,5 μSv/h 近辺である。4枚目の写真は、道の反対側あたりの荒川である。

y-n04y-n05y-n06y-n07y-n08y-n09太陽光発電材料の中でも、もっとも安価な部類になる、非結晶シリコンの技術が使われている。1枚目の写真に写っている立て札には、この発電所を作った会社の名前などが記されている。

最後の写真は野球場の反対側の風景だが、稲田は刈り終えられ、葦原があり、右手には有袋、左手には無袋の林檎が見えている。

3.2 第2地帯

y-n10y-n11右手、中ほどの高さの位置にサッカー場があり、2つのゴールが人目を引く。計測した放射能の数値はサッカー場では0,55 〜0,65 μSv/hであった。果樹園もほぼ同じであったが、やや高い場所もあり、0,75 μSv/h ほどに逹っした。反対に、水田や畑地では数値は低く、0,3〜0,45 μSv/hほどであるが、恐らく、土を耕したり、起こしたりした爲ではないだろうか。そうすると、セシウムからの放射の一部は土の下になり、土に吸収されるので線量は低くなりはするが、セシウムが減ったわけではない。植物の根がそうしたセシウムを吸い上げる可能性は常にある(その土地の物理的な性質、土壌中の有機質の量、栽培植物の種類、施肥の状態、特にカリウム肥料の量などによって、吸い上げ方は異なる)。

荒川の縁では、放射線量は概して高い。0,6〜0,75 μSv/hである。アスファルトやコンクリートの敷かれた場所では、線量は低くなる。0,45 μSv/h 前後である。

3.3 第3地帯

y-n12まず目につくのは鉄塔とその影である。地面は小片に仕切られ、野菜畑、稲田、果樹園が入り混ってパッチワークさながらだ。この付近一帯にもっとも普通に見られる土地の様相である。続く写真では、労働の質、樹々、とくに桃の木の美しさと力とをご覧いただける。遠く、稲田の向うに見えているのは梨の木だが、一種の支え木を水平に渡して、人工的な樹冠を作り出している。土は驚くほど豊穣で、手入れの行き届いた産物は格別に健康そうな様子である。農薬類の特有の臭気は私にはまったく感じ取れなかった。ただし、一年中そうなのかどうかは、調べてみる必要があるだろう。

y-n13y-n14桃の老樹の切り倒された幹が果樹園の縁に積み上げられて腐るに任されていた。切り株は、生えていたままの場に残されている。木々の枝が払われていて、風通しが良く、樹間距離も充分に取られて、隣りの木どうしが邪魔をしないようになっている。

y-n15y-n16y-n17y-n23y-n213.4 第4地帯

y-n25橋の軸上に正確にあるのが慶子さんの家だ。もっとも高い放射能の値が計測されたのは、家のすぐ前にある弓形の小径のあたりだ: 0,75 μSv/h 。
原発事故以来、日本では、太陽光発電が本当のブームであり、家々の屋根や工場あるいは商業施設の屋上もそうなのだが、太陽光発電所の形を取っているものもあり、 いちばん大きなものでは最大出力50MW を超える。
佐々木慶子の家では勾配の付いた屋根の南向きの部分の大半は受光装置に覆われているが、そこから数百メートルほどのところでは、地面に枠を設置して、多結晶シリコン技術を使った最近の型のパネルを見掛けた。

y-n26y-n274.結論は?

結論を出そうとするのは馬鹿気ていると、ギュスタヴ・フロベルが何度も言った。2011年3月11日の福島第一原発の爆発に由来する放射性降下物の害を受けている地域の置かれている、この奇妙な、整合性を欠いた、カオス的状況では、こうした攻撃的物言いがかつてないほどに当て嵌る。

県庁所在市の周辺部と言えるこのあたりに付け加えられた外部被曝値は結局、0,4 μSv/h (3,5 mSv/年)程度である。これは地表近い部分の土壌汚染に換算すると200 000 Bq/m2程度になるのだろう。しかし3年半が経つ間、除染も試みられ、豪雨も何度かあり、初期に蓄積した放射能のかなりの部分が運び去られ、あるいは地面の下に沈み込んだ。この地下に染み込んだ放射性物質から発する放射線は吸収され、その強さは、沈降した深さに応じて指数関数的に低くなる。200 000 Bq/m2 という値は、土壌の実際の汚染よりも、低く出ていることになる。本当の汚染の重大性をはっきりさせるには、数多くのサンプルを採取して分析しなければならない。

何れにしてもこのあたりは、旧ソ連の汚染地域に残された管理下に置かれた地域と同等の汚染地域である。ここからの収穫物をどうしているのか、詳細な調査を行なえば、生じる危険性について日本の当局がどのような考えを持っているのか、明かにできることだろう。私が見た範囲内では、農民たちは経済的に困っているようではなかった。クルマに乗って田畑にやってきて、落ち着いて作業をしていた。若い人たちは土埃の舞い上がるグランドでサッカーをしていた。新な危険がどこにでもあるのだが、そんなことは誰も気に留めていないようだった。

福島第一から10km少々の浪江町は準立入禁止地域なのだが、そこでこの数時間後に計測した数値は0,10 〜0,23 μSv/hだった。野田町の高い数値と、立入禁止区でのこうした数値を突き合わせてみなければならない。事故の帰結の管理に、理解し難い不整合があるのが、比較から明かだ。発電所の廃墟から12〜13kmの距離での0,26 μSv という数値は、その地域の汚染が、同じ発電所から60km以上離れている佐々木慶子さんの家の近辺と比較して、放射性残留物の蓄積量が、3分の1程度であるためであるからだと、考えるしかない。なのに、距離さえ離れていれば、放射線から守られるとでも言うような施策が取られているのである。

最後に、著者はたいへん上手い具合に風水を取り入れた部屋で、3晩を過すという喜びを味わったことを付け加えておこう。

y-n28部屋は慶子さんの家の3階にあって、南向きのガラス窓を隔てて荒川に面している。伝統的な寝室の作りそのままというのでもないようだ。共用空間である大きな部屋とは、3枚構成の引き戸で隔てられている。頭を西にして布団を敷き、窓は開けたまま、背を北に、川の流れの呟きに揺られ、新鮮なそよ風が頬を撫でるに任せて、私は眠った。ちょいと覗いただけのその時から、私は勝手にお気に入りの場所に指定させていただくことにしたのである

学習会報告


佐々木慶子

10月11日(土)、フクシマ・アクション・プロジェクト(FAP)として第1回の学習会を福島市で開催しました。タイトルへの関心が高かったせいか緊急のお知らせの割に60人近くの参集を得ることができました。
イヴ・ルノワールさんのお話は現地に何度も入り、疫学的にも調査を続けている生の情報が聞けてとてもよかったと好評でした。
中でもWHO(国連世界保健機関)、IAEA(国際原子力機関),ICRP(国際放射線防護委員会),UNSCEAR(原子放射線の影響に関する国連科学委員会)は立派な大義名分を掲げながら実は、陰で結託して原発推進の妨げにならないように役割り分担をして放射線への危機意識を高めないように世界に目を光らせていることなどが分かりました。

DSC01374続いて福島県が復興予算200億円もかけて2016年に開設しようとしている「福島県環境創造センター」についての問題指摘を行いました。これはあまり福島県民にも知られていません。建設予定は県内2ヵ所(三春町と南相馬市)の内、三春町に建設されるものは3棟からなり、その中の1棟の交流棟には展示エリアが設けられ3.11福島原発事故後初めて作られる放射線に関する公的な研究・教育施設となります。
県内の小学5年生全員に見学させるという意図は何なのかなどにFAPとして疑問を持ち昨年から県と何度も交渉を重ねてきました。今年6月の定例県議会には「交流棟の企画内容を原発事故と被災の教訓を踏まえたものにすることを求める」請願書を上程したところ、7月2日に全会一致で採択されました。これらの経過や問題点などをFAPとしてまとめたパンフレットを配布して説明しました。

当日はFAPメンバーはもちろん、原発いらない福島の女たち、ふくしまWAWAWAの会、福島連絡会などからたくさん駆けつけて細部にわたるお手伝いをいただきありがとうございました。
嬉しいことに当日入会が6人で18口ありました。また、東京新聞社の記者が取材に来ていましたがその成果が10月19日付の「こちら特報部」に大きく報道され「福島県環境創造センター」問題が市民権を得て来ていると感じています。さらにこれを読んだ天木直人さんが御自分の10.19付のブログで私たちにエールを送ってくれていることも分かりました。

以上、ご報告いたします。

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チェルノブイリでの放射線防護と、その後


イヴ・ルノワル

この文章の原文は、2014年10月14日に早稲田大学内で開催されたフォーラム用の準備稿で、11日に福島市で行われたフクシマアクションプロジェクト学習会でのイヴ・ルノワル氏の講演も、概略、これをもとに行なわれている。

1. はじめに

チェルノブイリの破局的惨事の後には、前例のない甚大な健康被害が続いた。

私が提起したいのは、その起源と制度上の理由の明確化である。

この甚大な健康被害の存在を否認する人たちの聖典とも言うべき、2006年に出た「チェルノブイリフォーラム」報告書の編者たちのうちの何人かが、福島事故後の放射線計測と健康影響予測との担当チームを組織したのだった。また別の«古株»たちは被災地を跋扈し、ベラルーシで破産したはずのエトス=コア方式を適用している。

チェルノブイリでの甚大な被害に光を当てることが、福島後の状況下で進行中の同様の被害に向き合う助けになればと、願う次第である。

2. 1986427日の状況と役者たち

プリピヤチからの退避が始まったのは27日で、爆発から36時間たっていたが、 放射性の霧塊の第一陣がスエーデンのフォルスマルク発電所に到達して、探査装置を作動させるよりは前であった。

1988426日に私はチェルノブイリにいた。その時の診療所長の説明によると、事故に先立つこと数年、アメリカによる«先制»核攻撃が懸念されていた時期に、練り上げられていたシナリオに基いて退避は行なわれた。核戦争を闘う部隊の兵員一人一人の被曝量を1Sv以下に抑えるという積りであったのだ。プリピヤチでの爆発直後の線量は平常の30万倍ほどに当たる、30 mSv/hほどにまで上がっていた。この数字は、事故を起した4号原子炉からほんの数十mの場所で、初日に«清算»作業をした人たちの推定被曝線量から確かめられる。それは3 Sv 以上(125 mSv/h 以上)であった。退避は必然となった。

世界がチェルノブイリ事故を始めて知った時には、プリピヤチは既に町としては死んでいた。

チェルノブイリ後の甚大な健康被害にICRPが果した決定的な役割を述べる前に、まずはこれをご覧いただきたい。

yvesw02195056年に国際連合の外郭で、放射線防護の諸機関がどういう国際的布置にあったかが、ここに示しておいた。この中で中心的な権威の役割を果していたのは、ICRPである。

階層的な図式に当て嵌っていることが、良く分る。

1)研究機関や大学などから発表される論文をUNSCEARが審査する。ここでの篩い落しに残ったものが、放射とその影響に関する«科学»の中身をなす。委員会の報告は国連総会にかけられ、総会はこれを承認して抗い難い権威を与えることになる。

2)この«権威を付された»基礎内容を拠り所として、

電離放射線と放射性物質による被曝に人が曝されるあらゆる部門にわたって、払うべき予防・注意措置

超えてはならない被曝線量の上限値

ICRPが勧告する。

3)これ以外の諸機関は、この勧告に基いて、規則や法的処置を定める。

1962年にICRPは勧告の適用を任務とする第4委員会を創設した。チェルノブイリ事故当時は、設立から1985年まで第4委員会の座長であったアンリ・ジャメが辞任し、替ってUKAEA 出身で、1959年以来委員会V(現在の第5委員会とは別)、次いで第4委員会でジャメの同僚だった、ジョン・ダンスタが座長になって間がなかった。ジャメは主幹委員会の副委員長に昇進して、委員長のアルゼンチン人、ダン・ベニンソンと並ぶことになった。ベニンソンは1962年から1981年までの間、第4委員会の一員だった。ジャメとベニンソンとはそれぞれ、UNSCEARで、ジャメは1964年以来、ベニンソンは1962年以来、自国を代表してもいた。ジャメはピエル・ペルランにバトンタッチする1993年まで、ずっと代表であり続けた。このペルランはICRPの第3委員会に1969年に登用され、その年にUNSCEARにも加わったのだが、第4委員会に在籍した1989年と1993年の間を除くと、1997年までずっと第3委員会の一員であり続けた。公式の図式に描かれているような一方通行の情報の流れは、こうした兼任の実態によって、否定される!

ICRP=UNSCEARという大家族の系図は知っておく価値がある

yvesw03長崎の原爆での« 黒い雨 »の降った地域内でのセシウム137の降下状況と、1986426日のヨーロッパでの降下状況とを突き合わせてみたのがこの図である。

チェルノブイリ事故の重篤性は想像を超えている。分りやすくするために、黒い雨の降った西山地区と同等の汚染になる、ロシアの2つの地区に跨る形で、比較対照の地域を設定してみた。長崎では45 km2 ほどが、最大で 30 kBq/m2程度の汚染である。一方、チェルノブイリでは汚染地域は1 000 000km2以上が、1 500 kBq/m2

を超えるまでの汚染になっている。

チェルノブイリでは、汚染の強い地域が、汚染のずっと少ない地域によって分断されていることに気付く。汚染の度合いのこのような差異は、降雨の役割をはっきり現すものである。しかし当たり前のことだが、雨が多かったか少なかったかにかかわらず、比較的近隣の地域では、より遠方で降雨が多量のセシウム137を地面に染み込ませた地域よりも、ずっと高い密度の放射能の雲が通過したのである。だから、近隣地域の住民たちは、そうした遠方の住民たちよりもずっと多くの放射性ヨウ素を吸引したのだ。ところが公機関に守られた疫学研究が病理学的な効果を説明する際には、土地の汚染線量を基盤にしている。それどころか、汚染地内にある線量の低い地域から、対照集団が取られたりさえしているのである。このような研究の結論を受け入れるわけにはいかない。 « 事故前 – 事故後 » の比較だったらこれよりは良いだろうが。

3. 甚大な危機の状況での、放射線防護への取り組みの2つの流儀

1986428日、クレムリンがチェルノブイリ4号炉の爆発があったことを認めざるをえなくなった後で、いったい何が起ったのか? さらに正確に言えばこうだ。害を既に受けた住民たち、受ける危険に曝されていた住民たち、そして害をこれから受けようとしていた人たちの運命を閉ざしたのは誰なのか?

さまざまな主導的行為の中から、2つを取り上げて比較しよう。ひとつは、ベラルーシの物理学者ヴァシーリ・ネステレンコによるものだが、彼は当時、ベラルーシの首都ミンスクに近いソスニの核研究センターで行われていた、移動式原子炉の構築を目指したPAMIRプロジェクトの責任者だった。もう一方はICRP副総裁であったアンリ・ジャメのもので、彼は委員会勧告の適用の歴史を体現する権威者であった。

yvesw04ネステレンコから始めよう。彼が事故を知ったのは28日で、クレムリンでソ連の閣僚会議(当時の最高執行機関)の軍産委員会に出席して、PAMIR の進捗状況を報告をしていた。現地との電話で得られる情報は混乱していて、19時の飛行機で彼はミンスクに飛んだ。いつもの運転手が空港に待っていたが、クルマには既に測定機器など必要なものが積み込まれていた。この42829日の夜中に、ミンスクから、発電所から40kmほどの、ブラヒンというウクライナ国境にある町まで往復する間に測定された空間ガンマ放射線をまとめたのが;この図である。ブラヒンでの測定値は正常なバックグラウンド値の3000倍ほどにあたる300 μSv/h に達していた。帰りに往きと同じ場所で測定していった数値は、往きよりもいっそう上っていた。ミンスクに戻ると、彼は研究責任者としての地位を通して動かせるだけの機関や人員を動員して、幾つもの緊急手段を取らせた。安定ヨウ素剤の配布、食品放射線量の測定管理、水浴禁止や屋外散策の制限などである。簡単に言えば彼は、原子力の仕事の責任ある地位の者ならば誰でも知っているはずの、放射線防護の基本原則を尊重してことを運ぶようにさせたのである。可能な限り多くの人が、放射線被曝を回避できるよう、一刻の遅れもなくことを進める、それが基本原則第1条である。

428日に、当時、ソ連側の放射線防護責任者であったレオニド・イリン教授と、最初に連絡を取った西側の人物の一人がアンリ・ジャメだ。ジャメにとってUNSCEARソ連代表のイリンは、そこでの同僚と言うより、ま新しいアルターエゴであったと言ってもよい。

56日にジャメは、コペンハーゲンでダン・ベニンソンを座長に開かれた最初の専門家会議に出席した。信頼できる証言によれば、「専門家グループは、雨水の使用を警告し、食品の放射線量を監視するよう勧告したが、住民の退避は提案されなかった」また、「事故後10日めの国際専門家会合は事故評価にも勧告にもたいへん控え目であった」….

では、このもっとも肝要な時点での、彼らの勧告の射程はどのようであったろうか。放射線防護の世界的権威は、物理学者ネステレンコが要求したのと同じようなさまざまな措置を勧告しただろうか。

彼らを裁くには恰好のものとして、内容の一致する2つの証言がある。

まず第1に、64日付ルモンド紙の医学欄がアンリ・ジャメ博士自身を情報源として、チェルノブイリ事故の被害を受けているヨーロッパ諸国の反応の« 協調性を取る » ための公式派遣団の機関を報じている。その中から、

ここでは彼の勧告に関する基本的な部分だけを取り上げる。

…..チェルノブイリ近くの村々の住民たち(約1000人)のうちで、風下にいた人たちは大量の放射性放出物の影響を受けている……。彼等は完璧な臨床検査を受けているし、医学的な監視の下に置かれることになるはずではあるが、こうして被曝したことが、健康上に何らかの結果をもたらす、ということを、今ここで、確信をもって言えるということではまったくない。

反対に、こうして害を受けた場所は、人が再びそこを訪れ、危険なく居住するに先立って、注意深い調査の対象となるべきであろう。….

ロシアの放射線環境学の専門家たちの決定を導くのは一つの«最適化原則»である。……

かなり遠方では、…..実際の放射能汚染が宣告がされうる。……この程度の汚染には……いかなる臨床的結果を伴うこともなく、したがって、何か特別の措置を必要としない」

ヨウ素131に対する子どもたち感受性を強調したUNSCEARの出版物や、甲状腺の被曝量は子どもの場合には1050mSv を超えてはいけないことが特記されている1965年の「ICRP 9 」に照らして、アンリ・ジャメがここに示しているような事態放置策には言葉もない。

ここで、« 臨床的結果» « 最適化原則 » という2つの表現を記憶しておいていただきたい。

ここでソ連に戻って、ヴァシーリ・ネステレンコが取った行動への反応がどうであったかを見ておこう。

429日の夕刻、ネステレンコはベラルーシ閣僚会議中央委員会総裁のミハイル・コヴァレフに面会していた。この委員会だけが、緊急事態宣言や人民強制避難を発令できるのである。ネステレンコが状況と取るべき手段を説明するのと並行して、隣室では保健大臣サフシェンカがレオニド・イリンに電話で、ネステレンコの提案を伝えていた。その前日にジャメ博士とそういう問題を議論済みだったイリンは、こう答えたのである。

「急ぐ必要はない。避難は適切でない」

ネステレンコの要求が適切だったことは、その直後、1986514日にベラルーシ共産党中央委員会にネステレンコが回付した恐るべき数値からも明らかである。

「ブラヒン、ホイニキ、ナロフリアの各地区での1986427日〜55日のガンマ放射のエネルギー水準は、50150Radに逹した模様である。…..甲状腺に吸収された線量の水準は501500Radの間にあるが、これは住民に対して定義されている、…..事故の際の最大値をすら、大幅に上回る。」

53日に、ホメリ州の査察に続いて、ネステレンコは、原発から30km圏とされていた避難区域を100km圏までに拡大するよう要求した。この提案は中央委員会に回付されて、57日の委員会で討議に掛けられた。

ダン・ベニンソンが座長を務めた国際会議の翌日に当たるその日、ヴァシーリ・ネステレンコは中央委員会の集まりから追放されたのだった。

ウクライナ閣僚会議議長のリアシュコも、広範な防護策を取った廉で、モスクワの大幹部たちの前で罵倒を受けている。

ICRP勧告が、レオニド・イリンという仲介者を経て、忠実に実行されたのである。

yvesw05写真は1970年代にICRPの会合の合間に撮られたジャメとベニンソンだ。

4. 国際組織の防護科学者の人脈

続く危機を通じて、それに対処すべき諸機関の最優先目標が、はっきり目に見える。であればこそ、突然でしかも未曾有のチェルノブイリ危機こそは、ICRPUNSCEARによって執行されている権力と、彼らの共同プロジェクトとの本質を、もっとも雄弁に暴露するものとなったのである。

このジャメとかベニンソンとかは、いったい何者であろう。彼らはどこから来たのか。どういう文化に浸って生きてきたのか。彼らの深部にある、何があっても譲れない選択肢は何だろうか。

彼らは防護学者の第3世代に属している。

1世代、パイオニアの世代は、1928727日のストックホルム会議で形成された。「X線とラジウムからの防護のための国際勧告」という最初の勧告が採択された会議である。放射線学者や放射線療法士の健康保持のためのものであった。この世代には、スエーデンの医療物理学者ロルフ・シヴァート(シーベルト1896-1966 )、そして放射線計測の専門家であったアメリカの物理学者ロリストン・テイラ(1902- 2004)という二人の著名人が含まれる 。二人はともに、ICRPの主幹委員会に、初めは委員として、その後は名誉委員として、前者は1964年まで、後者は2004年まで、休止なく座を占め続けた。

協調性と実効性を気にかけていたロリストン・テイラは、彼自身の言葉に従って言うと、グループの扱いやすさを保証するために、メンバーの数が増えないようにした。1947年には、原爆後の情勢の中で、テイラは、科学的な不確かさを一般の人たちの目の晒すと、世論による信頼が揺ぐことを恐れて、被曝限度を巡る討論を公表すべきだとする意見を葬り去っている。

2世代では、ICRPと、そして特にUNSCEARへの、マンハタン計画(アメリカの第2次大戦中の原爆開発)参加者たちのの流入が見られる。広島、長崎の存命者の研究にはオスティン・ブルス、シールズ・ウォレン、ジアキーノ・ファイラ、メリル・アイゼンブド、ジェイムズ・ニール、ジョン・ローリン、マクス・ツェレ、シャルル・デュナム、ポル・ヘンショなどが加わった。この人たちは総体として、1927年に放射線が突然変異を起こすことを発見したハーマン・マラをはじめとする遺伝学者たちの慎重な態度を攻撃した。この人たちにとっては、簡単に言えば、臨床結果が不在であるならば(今のところ発病していなければ)、被曝は無害で、予測できる健康上の影響もないと考えるべきであった。

X線とラジウムとへの秘教的信仰の中で育ち、原子爆弾の力に魅了されていた彼らは、原子力と放射性同位体の適用の中にこそ未来があると信じ込んでいた。ブレーキを掛けるなど、問題外であった。かくして、ハーマン・マラの拠り所ともなっていた、遺伝学者アルフレド・スターティヴェントによって19546月に公に表明された怖れに対して、USAEC の親玉ルイス・ストロスは真っ向から否認する議論を展開したが、その結論はこんな書き出しであった:

「根本的に言って、原子力が広く使われる世界へ人類を適合させていくという問題はたいへん真面目なものであって、だから我々は(遺伝学者一派のように)消滅しそうなほど僅かな確率的可能性について重大性を誇張するような真似はしないのである」

USAEC (米原子力委員会)の生物学と医学の部門の責任者であったオスティン・ブルスは、当時、ICRP委員会IIの一員で、また翌年にはUNSCEARの最初のアメリカ代表の一人にもなったが、「癌研究」誌に載った「科学における新なる感情論」という騒々しい論文の中で、しつこく念を押している。同じような物言いが何度も出るが、例えば、こんな文章だ:

「私は今、遺伝学者ではないが、私は医学校へ行ったし、ヒステリーの特徴的症状の一つは、視野の狭窄である……

ブルスは1946年には、トルーマン大統領に働きかけて広島にABCCを設立させた人々のうちの一人で、前にも挙げたジェイムズ・ニール、ポール・ヘンショウやシールヅ・ウォレンとともにその指導者の一人となった。

この50年代の中頃には、私が「臨床家」と読んでいる人たちが第一線に立ち、未来を準備していた。

3世代は、慎重な姿勢を貫こうとしていた遺伝学者たちがほぼ敗退したところに登場した。遺産相続人の世代である。ダン・ベニンソンとアンリ・ジャメはここに入る。2人はたいへん若くして、この名門家系に入り込んだ。

yvesw06放射性降下物を巡る世間での議論は喧騒を極めていた。原子力のイメージは不透明となった。それが彼らの一番の関心事であった。原子力の未来は、一般の人たちがその危険性をどう考えるか、放射能防護をどう考えるかに、かかっている。彼らにはそれが分っていた。彼らは、原子力への信頼を立て直すことを自らの任務としたのである。この役割に身も心も捧げ、自らの存在を投げうったのだ。

1930年生まれのベニンソンは、1954年にブエノス=アイレスで医学の学士号を取った。彼がその後2年間を過ごしたのはロレンス・リヴァモア研究所という、1940年設立で1941年にマンハタン計画に組み入れられた研究所内の、ドナー研究室(核医学生誕の地と言われている)である。博士号を手に入れ、アルゼンチン原子力委員会の要員となって、ついでにUNSCEARのアルゼンチン代表になっている。その時、彼は26歳であった。 1962にはUNSCEAR代表となり、2004年に亡くなるまで、その地位にあった。

1920年生まれのアンリ・ジャメはメード・インCEA(フランス国立の原子力研究所)の純粋培養品であって、 1951年に防護部門の責任者になっている。2年後にはICRPの新メンバーに指名されている。33歳であった。1958年には、UNSCEARのフランス代表に指名されている。

2人はともに、現在、特に福島で第一線に立っている第4世代の人々の人選に深く関係した。そうした一人が、引退間際とは言え影響力を失わずにいるアベル・フリオ・ゴンサレスだが、彼はベニンソンの直接の後継者で弟子でもある。

図では、こうした大指導者たちの間で、UNSCEARの役職とICRPの役職とを兼任する伝統が見て取れる。言うまでもなく、この人たちは皆、それ以外の数え切れない機関でも専門家とか顧問という形で役職に就いている。 特に国連関係で言えば、IAEAWHOでだ。

放射線防護の国際複合体内での世代間の遺産の引き継ぎに関して、イメージしていただけるようになったことと思う。

5. 198889惨状の実相と、新しい危機

1988年末から翌年頭にかけて、チェルノブイリでは健康状態の悪化が進んだ。子どもたちの具合はますます悪くなった。家畜も惨憺たる有様だった。人々の怒りも増した。ソ連政府も汚染マップの公表を余儀なくされた。ベニンソンとその同僚たちとが、事故以来、あらゆる講演や、また政策決定の場などで主張してきた、影響を最小限に見積った予測は、完全に信用を失墜した。

汚染した場所が豹の斑模様のように散らばった地域で、住民たちは移住を要求した。どうしたら良いのか? 前にも引用した信頼できる証言の続きを読めば、イリンやICRPの指導者たちが、どうやって問題を処理したのかが分かる。

「彼らは3年後にウィーンで彼らは、一生のスパンで計算した、地域住民に対して我慢させられる線量上限について、数値を上げる議論を非公式にしていた。彼らが閾値を定め、それを超える場合は移住させる必要がある、ということは了解された。L.イリンの提案している350 mSvという数値が受け入れられ、数日後には公表された」

この線量はICRPが勧告していた住民の被曝限度の5倍にあたる。ソ連での求心力低下の動きが、チェルノブイリの問題を巡って徹底して加速していった当時の流れの中で、数十万人の人々を危険に晒していることを覆い隠してきた嘘の数々を知って衝撃を受けた世論を前に、この基準を押し付けるには、自分たちはあまりに弱体だと、権力は感じていた。専門家たちが権威であり続けられるのも、正当性があると受け取られている限りでのことである。世論やメディアにとっていちばん目立つところにいるソ連の放射線防護担当者たちの権威は、地に墮ちていた。しかし、さらに多くの人たちを移住させるのは費用が嵩み過ぎるように思われた。何とかして、この新しい上限値を受け入れさせる必要があった。

そこで、WHOが呼び出され、この決定の正当性を人々に納得させることを職務とした、最上級の専門家たちの派遣団の任命を任される。WHOには放射線の専門的な知見などはほとんど皆無だが、しかしICRPという馴染のない名と違って、WHOのもつイメージならば人は安心する。派遣団にはダン・ベニンソン委員長と、第3委員会のピエル・ペルランというICRPのメンバー2人が含まれていた。旗持役は「WHO事務局放射線防護グループ長」というパッとしない役職の、ピータ・ウェイトというカナダ人だった。19897月のことである。

1990415日に私はミンスクでミハイル・ゲマスタイエフという物理学者と出会った。彼はある公開の講演会で、350 mSv についてベニンソンに質問をぶつけた。この基準に異を唱える質問者に向かって、ベニンソンはこう言った。

「あなた方には金がないじゃないですか。ということはつまり、避難はさせられません。だからつまり、問題なんてどこにもないということです」

こうした物言いに、いかがわしいところなどまったくない。1973年にICRPの「出版物22号」で提示され、4年の後に「ICRP勧告」と題された大部の「出版物26号」に包摂された、「最適化原則」の精神と文言を守ったものなのである。

では、勧告適用の哲学の、2つの言葉にについて論じることにしよう。

6. 「できる限り低く」と「最適化原則」

1974417日にアンリ・ジャメ博士は、放射線廃棄物管理の技術的選択肢を査定する省庁連合会議で、講演した。私も会場にいた。その日に、放射線防護の一番の問題は経済性だということが、私にはよく分かった。ジャメは、この図に示した図式を使いながら、発表の全体を、前年に発表していた「最適化原則」の説明に費した。

yvesw07副作用を伴う一つの行為を扱った、ありきたりの経済学的最適化曲線が提示されている。これは本物の « 費用対利益分析 » ではない。本物ならば、« 利益 » の縦軸に、同じ線上の « 被曝 » の縦軸の数字と向き合わせて数字を入れるはずだが、そうではなくて、より良い放射線防護のための付加費用と避け得る被害とが釣り合うように被曝の値を決めようというのである。

ベニンソンの応答をどう解釈すればよいだろうか。

より多くの人たちを避難させるには、多額の出費が必要で、それも猶予なく借入金によって賄う必要があるとされた。あてにできる利益は、3つの理由から、仮想的なものに留まるとされた。第1に、利益は何年、あるいは何十年もの後になってからのごく僅かな健康出費額分に相当するのだとされた。第2に、避け得る支出については、数値化不可能とされた。第3に、支出が避けられたからと言って、それで借入金が返せるわけではない、というようなことであった。

この「最適化原則」はどういう必要に対応しているのか。

as low as… 」の知的轍から抜け出す必要にである! この轍の最新版は、ICRPの「出版物26号」で定式化されている « ALARA (As low as reasonnably achievable合理的に達成可能な限り低く)の原則 » だ。さまざまに形を変える、一連の「as low as… 」は、1954年のICRPの「出版物1号」から既に始まっている。 医療分野で推奨されていた“lowest possible”(できる限り低く) が、ここで“as low as practicable”(実行可能な限り低く)に席を譲り、さらに1959年には、ほとんど同じ意味の “as low as is operationnaly possible”に変わった。難点は明白だ。拘束力のない形だけの規則なのである。1965年に「出版物9号」が明確化を行なった:「線量はすべて、経済的、社会的な影響を考慮に入れた上で、as low as is readily achievable (速やかに達成可能な限り低く)抑えなければならない」ということで、つまりはどういう状態であれ正当化される。「速やかに」とは、つまりは「楽に」ということだ。2001年にはALARAからALARPへの移行が議論された。PPraticable(実行可能)である。これは立ち消えになったらしい。ICRPは“as low as…” の哲学的袋小路に、迷い込んだままだ。

「最適化原則」には、ものごとを数値化さえすれば、どんな批判に対しても予め備えておけるという、知的快適性がまことに備わっている。一例ごと、実情に合わせれば良いのだ。最適化された防護mesuresの計算例は、「出版物37号・第4委員会」(1983)の中に幾つか提示されている。そうしたうちの「放射性産物廃棄に関する最適化の一手法の例」という題名一つで、批判者たちのうちのもっとも困難を厭わない者さえ、口を閉ざすということであろうか、何しろ、そこには計算に使用された(変数だの、機能係数だの、媒介変数だのといった)シンボルの一覧だけでも4ページもあるのだ。

yvesw08「最適化原則」の適用は、1976年にアンリ・ジャメの主導で創設されたCEPN(核の分野での防護査定研究中枢)の商売の中身そのものだ。CEPNのメンバーはたった4社で、フランス原子力局、フランス電力、放射線防護原子力安全研究所、AREVA社である。石綿など、放射線以外の危険分野にも、商売を拡げている。2000年代の初め頃から、ICRPCEPNに従属するようになり、自分たちではできない高度な数学計算はこの組織が頼みである。1979年以来この組織の頭脳である経済学者のジャク・ロシャルが、今ではICRPの副代表であり、彼のチームが、放射能への恐怖をモデル化する理論を携えたティエリ・シュネデルという数学者とともに、また福島エートスにも依りながら、「ICRP福島対話イニシアティブ」なるものを推進している。ジャメはここでも、遺業としてではあれ、新なる戦略的成功を収めた。CEPNICRPに包摂され、逆にICRPCEPN……

放射線防護は科学のような顔をしているが、科学ではない。荒天のただ中での舵切りである。ネステレンコは人々を護るためにできる限りのことをした。ジャメとベニンソンは、彼らの「最適化原則」を実現しようとさえ努めなかった。彼らは結局、原子力産業の将来を保全する目的に沿って、「最適化原則」を適用しただけのことである。

yvesw097. ただただ否認し続けるだけ : 原子力様の仰せの通りに!

「チェルノブイリ・フォーラム」報告書出版に先立ち、UNSCEARIAEAから幾つものコミュニケが出され、19869月のウィーン報告会議での予測と、事故の実際の帰結とが、よく一致していることを強調していた。つまり専門家たちは、自分たちの論文の中ではまったく想定しなかった状況に関して、その帰結を数値化して示す手段を1986年には手にしていたというのである!

疫学的調査結果のこの報告では、健康被害はほとんど存在しないと断言されているのだが、調査結果の中身そのものはそうなってはいない。しかし、こうした裂け目の記述に入り込むことはすまい。至高の権威が現実原則を退けているようなところで、闘いに参入しても無益である。この権威を裁くことが許されている審級などないのだ。

「臨床的結果は皆無…….」と、ICRP副委員長で、世界でもっとも原子力化されている国のUNSCEAR代表であった人物が、19866月初頭に予言しているのである。ベニンソン、イリンその他、ジャメの仲間たちはこの帆船に乗り込み、2つある船首の一方から他方へと絶えず行ったり来たりの乗り移りを続けてきた。目指す岬は50年代以来変わりがない:原子力の発展である。

チェルノブイリによって何千という数の科学論文が書かれることになったが、UNSCEARがその選り分けをした。

今、一瞬だけ、想像してみよう、委員会のただ中で、いとも長い年月、考えを共有し、論文を共著してきた仲間たち知人たちの居並ぶ中で、一大勢力が急に立ち現れて、ICRPの中枢にいる同僚たちのうちでもっとも影響力のある者たちの、チェルノブイリの甚大な健康被害を生み出す過程における責任を問うような仕事を維持していく、というようなことがあるかどうか。そうなれば、ICRP側の船首とUNSCEAR側の船首との間で魚雷を打ち込み合うようなものだろうか…….そして小舟は沈みかけるであろうか。

実際にそんなことがあったと仮定してみよう。国際的な放射線防護は乗組員もろとも沈んでいたことだろう。政治エリートやオピニオンリーダたちが掲げてきた原子力の有用性や無害性への信頼は、決定的に馬鹿にされることになろう。産業発展モデルの支柱が一つ、崩れ落ちることになろう。EPR欧州加圧水型炉)よ、高速増殖炉よ、核融合よ、さようならだ! チェルノブイリどころではない惨事ではないか!

しかし、国際原子力村には、見渡したところゴルバチョフはいないようだ。創業の父たちは、事業の行く末に熟考を払っていた。彼らの創造物はチェルノブイリの試練を乗り超えただけでなく、それを通じていっそう強くなりさえした。福島危機の運営がその証左である。

彼らは劫を背負った。存在し続けるには、一丸となって真実を否認し続ける以外にないのである。「原子力様の仰せの通りに!」