(放射能と)ともに生きる術を学びなさいって?


ロール・ヌアラ

リベラシオン紙2004年4月24日

今、ベラルーシで開始されようとしているのは、論争の的になっているプログラムである。汚染地域の生活条件再建のための協働プログラム(CORE)に参加している機関は様々だが、また、公的機関が大半だとも言える。国連開発プログラム(PNUD)の傍らに、ミュタディスというリスクのある活動を管理する専門会社も入っているが、また核の分野での防護評価研究センター(CEPN)、フランスとドイツの大使館、フランスの原子力安全保安院(IRSN)、等々を挙げておこう。資金は欧州委員会、PNUD、在ベラルーシのフランス大使館などから出ている。現地の住民に依拠した動きを一つにまとめようというのがCOREである。「住民たちを参加させるのが、一番の課題でした」と、ベラルーシ当局で大惨事の帰結の数々を管理しているセクションである、チェルノブイリ委員会のゾヤ・トロフィムチクも認めている。参加することによって、何がしか得るものがある、ということを理解させるのが一番ということだ。「再建ということはつまり、汚染と共存するということで、新しい生活様式を身に着けるということなのです」とミュタディスのジル・エリアル・デュブルイは説明する、「私たちはベラルーシの人たちにこう言うのです:あなた方に起ったことは、私たちにも起りうる、と」プログラムは4部門に分れている。放射能の状態、経済発展、大惨事に関する教育と記憶、そして保健である。

本当の課題をよけて通る

プログラムの推進者たちとしては、汚染の問題は、社会=経済的条件を考慮する形でしか取り扱わない。そこで、COREは農民たちが種や器具を買うことができるように、200ドルまでの金額の小規模貸付けというプロジェクトを擁護していく。「国境なき遺産」というフランスの団体が「教育と記憶」の部門を担当し、大惨事の体験を未来の世代に伝えていく。「ここ18年というもの、子どもたちは汚染された地域に出生しているのですから、彼らに放射線防護に関する情報を申し送りしていくのは、絶対に必要なことです」と、CEPN代表のジャック・ロシャールは説明する。「世界の医師団」とフランス原子力安全保安院(IRSN)はもっとも論争の的になっている保健の部門を担当する。医師団はチェルチェルスク地方の妊婦200〜300人の面倒を見る予定で、IRSNは子どもたち3000人を5年にわたって年に1度、医療診断と線量測定することになっている。

批判者たちの急先鋒は、ベラルーシの研究者たちと密接なドキュメンタリー映像作家のヴラディミル・チェルトコフだが、彼らに言わせれば、COREというプログラムは「本当の課題を常によけて通る」類のものである。課題とはすなわち、「生まれながらの汚染まみれの人生」から「救い出す」ということだ。チェルトコフによれば、プログラムが何も措いても取り組むべきなのは健康の分野であって、なかんずく、暮す人々を除染する道を探ることである。「未来の諸世代にとって、これは根本的なことです。低線量被曝の健康への効果をキチンと評価できるように試みていく必要があります」と小児科・心臓科医師のガリーナ・バンダジェフスカヤは考えている。COREの参加者たちは、ベラルーシの一部の研究者たちが進めている仕事を「疑うことをやめる」のではなく、むしろ、「人々が実害を減らしながら生活するのを助ける」方を選ぶ。特に、汚染された食品を避けることに重点が置かれている。

核のロビー

しかし、それでは不十分だ。「汚染した地帯に住む人々に対して、本当は避難させる必要があるのに、大丈夫です、暮していけます、と言うのですよ」とフランスの放射能測定独立機関CRI-IRAD代表のロマン・シャゼルは苛立ちを隠さない。様々な水準に汚染された村々に生活する、貧しいことの多い200万人の人々を移住させるのは、しかし簡単でない。「そのうえ、動きたくない人たちというのもいます。この人たちはこの自然に深く根を下していて、しかし自然は彼等を根こぎにしているわけです」と、ジャック・ロシャールは指摘する。

批判のもう一つの論点は、CEPNのCOREプログラムへの参加である。CEPNには、EDF(フランス電力)とアレヴァ社という、フランスの民間原子力の一番の擁護者を主力にした組織だ。CRII-RADのメンバーたちは語気を荒げる。「核のロビーの連中は、汚染した地域に人々を再居住させることによって、核事故は破局的なものではないことを示そうというわけなのですよ」とシャゼルは断言する。そしてチェルトコフは告発する:「ベラルーシの当局者たちは汚染された大地に人々を再居住させようとしていて、こうしたロビーの連中はその共犯です。こんなんことが見過ごせますか?」CEPNの代表はこれを全面的に否認する:「私は無関心でいる権利がないという意味合いで、現地のことに責任も感じているわけです。あの人たちは「汚染者=支払うべき者」という原則を振り翳して迫ってくるくせに、核事故に限っては、惨事に巻き込まれた人たちを産業界が助けてはいけないとでも?」

確かなことは、国土の1/4が放射能に汚染されてしまっこの国に援助が必要なことである。チェルノブイリ委員会のゾヤ・トロフィムチクはこう語る:「人々はあそこで暮し続け、結婚し、子どもを作り続けているのです。こには不幸があり、しかしまた、現実の暮らしがあります。日々の暮しです。ここでの問題が世界中の問題になってしまっているのは、私たちの責任ではありません。世界中で、私たちを援助する必要があるのです」

エートスへ、そしてCOREに至る流れ


ウラディミル・チェルトコフ

2002年11月15日

COREの基本文書へのチェルトコフ執筆の批判文書に、予備的な注釈として付されているもの

ヴァシーリ・ネステレンコ

チェルノブイリ大惨事が生み出した状況に関して、ソヴィエト政府は動きもせず、嘘を重ねていた。物理学者のヴァシーリ・ネステレンコ教授は学士院会員であり、ベラルーシ科学院原子力研究所の所長であったが、事故の直後、政府の決めた30kmではなくて100kmの半径内の住民たちを即刻避難させるように要求して、当局と対立、余分な警告を行いパニックの種を播く人物であるとして、1987年7月に解任された。1990年にネステレンコはこの国立研究所を最終的に離れ、アンドレイ・サハロフ、カルポフ、さらに作家のアレス・アダモヴィチの支援を受けて、放射線防護独立研究所«ベルラド»を設立し、放射性降下物の被害にあっている地域で、子どもたちの救援に乗り出した。ベラルーシのもっとも汚染の激しい地域の村々に370個所の放射能測定地域センター(CLCR)を設立し、そこに医師たち、教師たち、看護婦たちを集めて放射線防護の手解きをし、また家族たちに食品から汚染を減少させる調理法を学ばせた。短期間しか続かなかった「民主化」の時期の間、政府の「チェルノブイリ委員会(コムチェルノブイリ)」からの資金を得て、初めのうちは運営されていたわけだが、核ロビー(IAEA、WHO、およびミンスクの保健省内でこれに対応するセクション)が状況をその手に取り戻して以後は、CLCRはその数を68にまで縮小されることになった。

1996年にネステレンコは林檎ペクチンをベースにした食品添加物の導入に成功し、ウクライナの保健省からはセシウム137の吸収剤として推奨されることにもなった。子どもの身体組織に溜ったセシウムが1ヵ月の治療で60-70%ほど減少するのだった。

ユーリ・バンダジェフスキー

1994年にネステレンコはホメリ医学院院長で、解剖=病理学者で医師のユーリ・バンダジェフスキーの知己を得た。バンダジェフスキーは1991年より、汚染地域の住民たちに見られる、これまでにない病理的状態について、病原学的研究を重ねていた。小児科・心臓科医師の妻、ガリーナとともにバンダジェフスキーは、心臓の形態的・機能的変質の頻度と重篤性が、身体組織に含まれる放射性セシウムの量に比例して増加しているのを発見した。彼は「セシウムによる心筋病変」をこう描いている:心筋組織の変質をともなった小児、青少年、成人の心臓疾患。あらゆる年齢層、小児にさえおこる突然の死。バンダジェフスキーと共同研究者たちのチームは、「心臓、肝臓、腎臓、内分泌諸器官の各部で、また免疫系にも同様に見られる、相互依存的な病変過程」を描いている。こうした傷ついた状態は、すべて、似たような病理過程からきている。彼らはそれを「放射性核種の長期間摂取による症候群」と呼んでいる。ホメリ医学院のあらゆる研究部門から上がってきた何千人もの子ども、大人の健康状態の厳密な研究の成果であった。9年にわたって、25の研究室が同じ主題で、臨床、動物実験、病理解剖学という3つの方向性で研究を続けるのである。ホメリ医学院には200人の教員と300人の補助職員、1500人の学生がいた。

★★★★★★★★

1996年から、「ベルラド」研究所とホメリ医学院とは協調して仕事をするようになる。ネステレンコは村々を一つひとつ訪ね歩き、西欧のNGOから提供を受けたホールボディカウンタをもって、セシウム137による身体組織の内部汚染を測定することに力を注いだ。セシウムの身体組織への作用の、神経解剖学的研究には、彼は自作のガンマ放射線自動測定器を、ホメリの研究者たちに提供した。これによって、調べている器官ごとの、kgあたりのセシウム137量を、解剖の度に測定することができた。両研究組織によって、子どもの場合でも実験動物の場合でも、食事を管理してセシウム137を極小にすれば、生命に影響する器官の致命的な損傷を避けることができることも、示された。まったく新しい研究への道が、ここい開かれたのだった。

1999年4月、2人の科学者たちはベラルーシ議会に招かれた。線量白書と、チェルノブイリ事故の諸帰結に関する医学研究の中での、保健省の放射線医学研究所による国家資金の使用の正当性を審議する委員会で意見を述べるためであった。2人の陳述の結論は、委員会内の保健省に近い筋のメンバーたちの気に入らなかった。バンダジェフスキーとネステレンコと研究所前所長のストジャロフの3人は、別の報告書を作成して、住民の健康に責任を負っているベラルーシ国家評議会に送付した。評議会は保健省の線量白書を撤回させ、ネステレンコ、バンダジェフスキー、ストジャロフの「結論をベースにして、早急に」白書の内容を見直すように指示した。一方、バンダジェフスキーは一通の報告書をルカチェンカ大統領に送付し、その中で、保健省の研究所の基本方針に厳しい批判を向け、総予算1700000ルーブルのうち、有効に使われているのは100000ルーブルだけだと主張した。その数週間後、1999年の5月だが、保健省の3つの統制委員会が突然、ホメリ医学院を臨検したが、何も異常を発見できなかった。1999年7月13日の夜、バンダジェフスキーはルカチェンカ大統領の発布した反テロリスム条例を根拠に逮捕された。2001年6月18日、彼はベラルーシ最高裁の軍事法廷で証拠のないままに汚職の罪で禁固8年の有罪判決を受けた。ホメリ医学院の新しい医学院長はバンダジェフスキーが創設した研究プログラムは、高等教育機関のプログラムの名に値したないとして、廃棄たのだった。

ガリーナ・バンダジェフスカヤ

小児科・心臓科医師だったガリーナは、ホメリ医学院の小児医学講座の教授だったが、追放された。2002年9月2日以来、彼女は「ベルラド」研究所で科学秘書兼医学部門責任者として働いている。

エートス

こうした間に、1996年、エートスと名乗るフランス人の研究者グループがネステレンコ教授の運営するオルマニー村の測定センターCLCRを頼ってやって来た。彼らはネステレンコの放射線測定データを手に入れ、チェルノブイリの汚染地域で前例のないこの研究所の内部で、ネステレンコから放射線防護を学んだのだった。エートスはCEPN(核の領域での防護評価研究センター)の作ったものだが、そのCEPNはEDF(フランス電力)と原子力庁(CEA)が作ったもので、フランスの核ロビーの化身のような団体である。

エートスの目的の一つは、「放射線量と社会的信頼との長期管理を定義」(2001年4月1日の要約議事録)し、核事故と、寿命の長い放射性核種に汚染された地方の管理に関して、欧州連合向けに研究成果を文書化することである。1996年から1998年まで3年の間、エートスはオルマニーのCLCRの測定データを集め、ネステレンコが養成した技師を使い、ネステレンコが設備した装置を使って、食品や牛乳などの放射能測定を行ない、女性技師が測定で残業になっても一銭の支払いもしようとはしなかった。この同居状態に実りがなかったわけではないが、しかしそれもエートスがベラルーシ当局に、ネステレンコをオルマニーと、ストリン地区の他の4つの村から追放させた日までのことであった。

今日、エートスはチェルノブイリ地方の放射線防護に関する科学的権威であるかのような顔をしている。そして、COREプログラムを編成したわけだ。

「ベルラド」研究所は切迫した経済状態の中で、存続のために苦闘を続けている。資金の提供者たちは、ヨーロッパのつましい市民たち、環境と健康を防護するNGOのメンバーたちである。エートスの動きに対してこうした諸団体が批判を強めたために、ネステレンコもCOREプログラムに加えられることになったが、しかし、汚染を受けている子どもたちの病気を予防する活動を続ける手段を、ネステレンコは奪われたままだ。