川内村の原産会議プロジェクト


大沼淳一

「緑亭通信」より転載

原子力産業会議といえば、原子力ムラの本丸です。

原産会議が福島県川内村で行っている「きずなスクエア構想」の紹介動画を下記のサイトで見ることが出来ます。
http://www.jaif.or.jp/ja/jaiftv/archive53.html
(8分間ですから、簡単にのぞくことが出来ます。)

内容は見ればわかりますが長崎大学医学部の若い女性保健師が村に常駐し、村人の相談にのっているという紹介が入り、この娘さんがナレーターで動画は進みます。長崎大学は、この村に「長崎大学復興推進拠点」を設置し、彼女はその駐在員ということのようです。村内7か所には食品放射能測定器が備えられて、持ち込まれた農産物の測定を行っています。

30分測定で1核種あたり6Bq/kgが検出限界のようでした。村の祭りや各種イベントのサポートもしているようです。これが、まさに原子力ムラ側の「福島で心豊かに暮らす(?)」モデルなのでしょう。

彼女は、「放射能は恐れすぎてもいけないし、無関心でもいけない」などと教訓をたれています。

こういうやりかたは、ベラルーシで進められたエートス運動に似ています。国際原子力ロビーを構成するIAEAやICRP などが主導し、汚染地域で放射能におびえずに、「正しく(?)」放射能を測定し、被曝線量を測定し、自己管理しながら明るく生きるやり方を住民に指導したのです。

川内村で進められているのは、まさにそのコピーかと思われます。むしろ、IAEAもICRPも、福島に入ってきていますから、コピーではなく、エートスプロジェクトがすでに始まっていると考えた方が良いのかもしれません。

原発事故で放射能汚染した地域でまず大切なことは、避難の権利が認められ、避難先での新しい人生設計を十分にサポートされることです。その上で、どうしても故郷を離れられない人のために、汚染と被曝線量を常にチェックして、極力被曝を避けながら生活する方法が示唆されるべきでしょう。

ところが福島県では、やみくもに帰還政策が強行されています。避難先で、賠償や行政からのサポートが打ち切られて、帰還せざるを得ない状態に追い込まれるような事態も進行しています。安心して避難できない、放射能を恐れる発言さえ封じられ、マスクをしただけで白い目で見られるような状況が続いています。

それにしても、こんな若い娘さんを現地駐在させて進められるプロジェクトを、長崎大学医学部と原産会議がコラボしているという構図は、実に怪しからん、実に恐ろしいことです。

今、福島で何が起っているのか


武藤類子

2012年12月16日、市民会議「海外からみた福島原発震災・福島から考える未来」(フクシマアクションプロジュエクト主催・於:郡山女子大)での発言

皆さん今日は。私は三春町というところに住んでいる武藤類子と申します。私の家は原発から約45キロのところにあります。で、昨年3月11日に原発事故が起 きて、福島がいったいどんな状況になっているのかということをお話ししたいと思います。ここに福島の方がたくさん会場に来ておられますけれども、皆さん一人ひとり、本当に一人ひとりに困難があった、という状況なんですね。で、そのことについて語り切れませんけれども、代表的なことをお話ししたいというふう に思います。

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これが福島原発の3号機と4号機の写真ですね。4号機がたまたま点検中でしたので燃料棒が取れて、原子炉から使用済み核燃料プールに入っていました。今、 1600本の核燃料が入っています。で、つい昨日も地震がありましたけれども、ちょっと前にも大きな地震がありましたね。この地震で、この燃料棒の入った プールがいつ崩れるだろうか、そしてこの燃料がさらに爆発しないだろうか、という不安を思っています。

それから3号機はついこの間、瓦礫の撤去作業中に鉄骨が燃料プールに滑り落ちたという事故がありました。近寄れないので、鉄骨が外に転がっています。それで、クレーンの操作を間違えて、鉄骨が入ってしまったんですね。プールの中を覗いたらさらに2本の鉄骨が入っていたということが分りました。

それから2号機の建物は壊れていな いんですけれども状況はいちばん深刻でいちばん線量の高いところが原子炉格納容器の上の部分だと言われえちます。それは73シーベルトあるそうです。73 シーベルトというのは、人が1分間そこにいたら100%死亡するという数値だそうです。生身の人間がここに入ることができるようになるためには、300年 かかる、というふうに言われています。

そこで今、1日3000人の労働者たちがいらいています。彼らは年間50mSvが線量の許容数値でし たけれども、いきなり250mSvに引上げられたんですね。夥しい被曝の中で作業をしているという状況です。そこで働いている人たちは約60%が福島県民だと言われているんですね。その人たちは仕事を失くした人や田畑で田圃を作ることができなくなって、そういう人たちが原発労働者として多く働いています。

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これは福島県内に2700個所あるモニタリングポストです。これは3ヵ月くらい前の郡山駅前、東口というところですね。0,998、約1マイクロですね。 で、こういうホットスポットが今も町の中にたくさん存在しています。もっと高いところもあります。このモニタリングポストに関して、疑惑が持たれたんです ね、これは本当に正しい数値なんだろうかということが言われていました。どうも、測っている測定値の線量と違うようだと、気付いた人たちがたくさんおられたんですね。

それでXXの人たちが測って、それからグリーンピースジャパンというところも測りました。そしたらどうも数値が低く出ているものが多い、すべてのではないんですけれども、多いということが分りました。で、どうしてなのかということで、発表されたのは、これはソーラーパネルを使った自家発電の装置なんですね。それで発電された電気がバッテリーに蓄められます。で、バッテリーというものの中には鉛が入っています。鉛で遮蔽されて、線量が低く測られているのではないかということも言われています。あとは、このモニタリングポストを設置する前に測るところだけを除染しているのではないかということも言わています。

次に、これを測定した半月後に私が同じ場所に行ったら、0,5μSvに変わっていたんですね。それで、どうしてかなっと思ったら、そこを除染したと言うことを聞きました。この広場だけを除染したということです。このように、自分たちが住む場所の空間線量という最低限の情報すら私たちは得ることができない、というふうに認識しています。

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これが早川先生という方が出しておられる早川マップというマップですけれども、非常にこの、放射線の拡散っていうのは日本中に拡がっているのですね。こうい う中でですね、福島市や郡山市っているとろは非常にたくさんの人がいるんでしけれどもとても高い線量が今だに測られています。それから、避難が義務の地域、チェルノブイリで言えば避難の義務の地域、あるいは避難の権利がある地域、というところに今だにたくさんの人たちが暮しています。子供たちもそこに家族といる、ということになっています。で、この原発事故があってすぐに、日本の国はデータを隠すことや安全キャンペーンを張って、「この事故は大したこと ないんだよ」っていうことを言い、そして数値ですね、規準値を上げるということをしました。
それによって福島県民は、もしかしたらしなくても良かったかもしれない被曝をたくさん強いられたっていうことがあるんだと思います。

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これは川内村という村です。原発から20キロくらいのところです。この村は原発事故があってすぐに全村避難ということになって、全員で避難したんですね。ところが一早く、全村帰村、帰村宣言をしたんですね。3000人くらいの小さな村なんですけれども、すべての家を建て直して戻る、ということを決めました。 これは8月に私が写した川内村です。ここで除染の作業というものが行なわれたわけなんですね。これはどういう除染かと言いますと、家のまわりを20mも木 を切って、それから敷地の中の木を全部、抜いて、5センチも土を剥ぎます。そして新しい土を入れて整地をするという、それで終りなんですね。それで1軒めを除染して次々とやっていくと、10軒くらいまでいくと、最初にやった家がまた元の線量に上がっているということを言っていました。たまたま私の友達がこの除染作業に出ているんですけれども、そういうことを言っていました。

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これは先程の家の道路を隔てた向い側です。先程の家から出た除染ののゴミですね。土や切った木の枝などがここに入っています。これは1m20cmくらいの大 きな袋なんですけれども、ここに線量計を近付けたら4μSvありました。こういうものが今、福島県中にたくさん置いてあります。これを山の中の村では、こうして仮置き場にするところもあるんですけれども、町の中ではちょっと大変です。置くところがありません。だから家の、家から除染されたゴミは、自分のうちの庭で穴を掘って、そしてそこに埋めて土を被せる、またはブルーシートを被せただけっていうところも中にはあります。

で、今、1年と9ヵ月経ったわけなんですけれども、今だに放射線というのは原発から毎日、1000万ベクレルですね、放出されていると言われています。この間、こういうこと がありました。農業試験場というところで、大根を測ったんですね。まったく放射能の出ない大根を測ったんですけれども、それを切干し大根にしたんですね。 切って外に干しました。そしたら、3000ベクレルになったということを発表しました。だから放射性物質はまだまだ私たちのまわりにたくさんあるっていうことですね。数字にもなっているということですね。

そして、約1年経った頃から、福島では「復興」ということが言われ始めたんですね。先程、佐々木慶子さんがおっしゃっていましたけれども、子供たちを復興のシンボルにしています。例えば、子供の参加するマラソン大会とか、スケッチ大会が外で行なわれるようになり、それから学校の外に出る制限時間が解除されました。それから外でのプールも行なわれるようになりました。それから家庭の子供たちがいわき市というところの瓦礫の片付けのボランティアに行ったということもニュースで聴きました。

それからですね、どんどん、最初に行われ た安全キャンペーンと同じようなものではなくて、もっと違った形の放射線の安全キャンペーン始められるっていうように思います。例えば、子供たちがよく行くような施設で、「正しく怖がる放射線」っていうことをやり、それから伊達市というところでICRPの第4委員会の委員長であるジャック・ロシャールという人が来まして、市民との対話集会、ダイアローグというのがありました。そうしたことがあります。

それから賠償がどんどん遅れ、それから借 り上げ住宅の新規打ち切りという案も出ているんですね。これはどういうことかと言うと、福島県民をどんどん元に戻して、ここに住まわせるという、そういうことに取り組もうという、福島県も自治体も進めているということです。他で暮す、避難をするとか、そういうことに関しては選択肢になれないような、そんな状態になっています。

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これは一昨日、行なわれたIAEAの人々の福島原発の視察ですね。真ん中に天野さんがいます。私は三春町というところに住んでいますけれども、私の住んでい る町に今度、福島県が作る、環境創造センターというものができます。ここにIAEAが常駐することになっています。約60億円を使ってこの環境創造センターを作るそうなんですけれども、ここに関係している人々はどんな構成メンバーでできているかと言いますと、JAEA(日本原子力研究開発機構)、それから国立環境研究所・資源環境廃棄物研究センター、日本原子力学会、それから放射線防護研究センターですね。そして日本大学と福島大学も入るということになっていますね。

その中で出てくるのは、環境放射能等のモニタリング、廃棄物処理の研究、それから情報収集、発信、それから研究交流機能っていうのがあるんですけれど、ここでは放射線の影響に関するリスク・コミュニケーション、そういうことが研究されるというふうに言われています。これに関しては、どういった形でどんなふうに行なわれていくのかっていうことに、とても不安に感じます。

先程の方もおっしゃっておられましたけれども、こうしたことが私たちにはまったく何も知らされないで決まってしまったんですね。すべてが私たち抜きで決められていくという感じがしています。で、三 春町にこの創造センターができるっていうので、福島県が三春町に説明に来るっていうことになったんですけれども、それに出席できるのは議員と区長だけで、 一般住民は入れないということなんですね。そういう中で進められていくのだ、というふうに思います。

どうぞ福島の人たちに思いを寄せてください


大塚愛

「100万人アクションinヒロシマ」(2011年4月24日、広島中央公園)より

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今日は、大塚愛です。私は3月11日まで福島県双葉郡川内村の住人でした。今、30キロ圏内の丸の中にスッポリ入るところです、川内村は。12年前、1999年から自給自足の生活がしたいと思いまして、選んだ農場が偶々、福島県でした。とてもそこに惹かれたので、岡山から研修に行きました。そしてその後、東北の美しい自然が気に入って、そのままそこに住みつくことになりました。

住みついた場所は電気も電話も通じていない、もちろんガスも水道も通ってない山の中でした。そこにまず自分で小さな小屋を作り、田圃や畑でお米や野菜を育てて、暮し始めました。その後で村の大工さんと知り合って、大工になりたいという思いを持っていたので、4年間、大工修行をしながら田圃や畑を作るという暮しをしていました。

その後で横浜の設計士をしていた男と知り合って、今度は二人で大工を卒業した後で、自分たちで20坪ぐらいの土壁の家を作りました。新しく作った家には夫が電気を欲しいと言ってソーラー発電を取り入れました。電線が来ていないところなので、ここと同じシステムです。

畑にパネルを置いて、そこからできた電気をバッテリーに蓄めて、で、そこのバッテリーに入っている分だけを使いながら生活する、だから曇り、雨が続く時はちょっと電気を抑えながら、暮すという、お天気に合わせたような暮しをしてました。

そこはとても自然の美しいところで、場所が気に入って住みだしたんですけども、住んですぐ、原発が20kmのところにあると気付きました。そして、チェルノブイリで起ったことを本で読んで、コトの大きさということが分って、そこに住みながら自分にできる行動を取っていました。

そこの川内村は«原発城下町»と言われていまして、経済を…原発関連の仕事に就いている人が、沢山いました。村としても、助成金を沢山もらってました。その中で、「原発が危いよ!」って声を挙げることはタブーのような、ちょっと重い空気を感じていました。

それでも村で住む人たちは肌で原発が危いということを知ってました。なぜなら、原発に働きに行った人が病気で亡くなるからです。私と同じ部落に住んでたおじいちゃん、おばあちゃんには、大事な一人息子がいました。その息子さんは若い時に亡くなりました。彼も仕事は原発関連の仕事でした。

また2年ほど前、村で人一倍元気な、村造りに本当に貢献してたいいおじさんがいたんですけども、その人があっと言う間に急病で亡くなりました。その方も仕事の一部で原発関連の下請けの仕事をしてました。

そんな話を幾つも聞きながら、住んできました。村の人たちは危いって気付いてたけども…そうですね、「要らない!」と言い切れない状況にありました。そんな中で私は、もし原発で働いてる人が、同じ電気を造る仕事だったらば、ソーラーパネルを作る工場だったらどんなにいいだろうか、燃料電池やリチウムイオン電池とか、そんな新しい自然エネルギーの工場だったらどんなにいいだろう、同じ電気を作る仕事で。そう思いました。思っていました。

そんな中、3月11日、地震が起り、今まで心配していたことが本当に起ってしまいました。地震は震度6強だったので、家は随分揺れて…揺れたんですけれど私たちが建てた家はうまく揺れてくれる家だったせいか、あまり被害がありませんでした。そして、割れた物を片付けたぐらいで、後は、元々ライフラインのないところですから、停電することもなく、自分たちで掘った井戸から水を汲み上げて、五右衛門風呂を薪で沸かし、薪をくべてご飯を作り、いつもの通り夕方、生活を再開…始めました。

そこまでが、私が川内村で暮していた時間でした。暗くなった頃に、まず冷却水ストップのニュースが、ニュースの中でほんのちょっとです。凄く大きなことなのに、ちょっとだけニュースで聞こえました。何か起ってるんだと思いました。それから、1〜2時間後、3km圏内避難指示というニュースが入ってきて、夫と一緒に、何が起るか分らないから、少し離れたところまで行って寝ようと言って、パジャマを着せた子どもを…5歳と1歳の子どもがいるんですが…子どもをクルマの後ろに布団を敷いて寝せて、取り敢えずの荷物…取り敢えず、取り敢えずって自分に言い聞かせながら、家を出ました。

そして40km離れたとこまで行って一晩明かし、次の日は100km離れた会津のへんまで行って、様子を見てましたが、一向に収まる気配はなく、水素爆発の手前の頃でしたが、私はその時、後ろ髪が引かれて、自分が住んでた場所だけはきっと大丈夫って、避難を決められなかったんですね。

でも夫は小さい子もいるんだから、絶対、川内には帰れないから、離れようって言うんですね。頭では分ってるんです。けども心と体が動かないんですね。突然、裁ち切られて、自分の家から出てきて。

暫くボオーッと会津若松の町で過した後、ある時に「そうか、私が住んでたあそこにも、放射能、来ちゃったんだ」って認めた瞬間があって、とても悲しくって、それから、取り敢えず、暫く滞在できる岡山の実家に帰ろうと決めて、クルマで新潟を通って、3月13日に岡山に着きました。

今、私が住んでいた川内村は全村避難で、村の人たちはほとんど牛を飼っている人や鳥を飼っている人はどうしても離れられなくって、少しは残ってるんですけど、今、川内村は空っぽです。

働き者の大工の親方も、春が来て種を播きたいお百姓さんたちも、狭い避難所やビジネスホテルでこの春を迎えています。

今日、広島の町にバスに乗って入った時に、「ああそうか」って気が付いて、ここは原爆が落ちた時に、火傷して亡くなった人たちは、私はもう、後に生まれて話を聞いたから、その人たちを被爆者としてしか認識してなかったけど、8月6日のその日まで、普通にそこに生活していた人なんだっていう事実に気が付きました。

今、福島県で被災している人たちも、当たり前のように自分の場所で細やかな幸せな日常を送っていた人たちが、自分たちの土地と生活を離れています。

またそれは、放射能は眼に見えません。一見、自分が住んでいた場所は何も風景が変わっていません。少しだけ屋根は落ちてたりするんですけども、変わってません。その事実を認識することの難しさというのも感じています。

人はお金が無くっても土と水と空気さえあれば生きていけます。どんなに札束があったって、人はそれだけで生きていけません。私たちの命を支えるものを、この大地と水と空気です。その一番大切なものを福島県の人たちは奪われてしまいました。

これから5年、10年、ずっと長い間、どうぞ福島の人たちに思いを寄せて、関心を持って、そして愛を送ってあげてください。

それから、この教訓から、エネルギーシフト…この教訓をエネルギーシフトへの、明いエナルギーに変えていけるように、人が繋って…繋がることからしか、力は生まれないと思います。皆で繋って変えていけたらいいなと思っています。

ハイロアクションが去年、始まって、私はそのハイロアクション…廃炉を目指しながら、それぞれが色んなことをやっていこうというのが始まって、私は、じゃあ、何をしようかって思った時に、イマジン、ジョン・レノンのイマジンっていう曲のフラがあるっていうことを知りました。私は「あ、これをやりたい!」と思って、「アロハで廃炉」っていう名前を付けて、去年、福島の仲間たちと練習し始めていました。後程、そのイマジンを踊らせていただきたいと思います。

その前に今日、下関から、素敵なフラシスター、ママさんたちが来られています。後でイマジンも一緒に踊ってもらいますが、その前に、「故郷」のフラを踊っていただきます。どうぞ、福島の地に愛を送りながら、観ていただけたらと思います。