どうぞ福島の人たちに思いを寄せてください


大塚愛

「100万人アクションinヒロシマ」(2011年4月24日、広島中央公園)より

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今日は、大塚愛です。私は3月11日まで福島県双葉郡川内村の住人でした。今、30キロ圏内の丸の中にスッポリ入るところです、川内村は。12年前、1999年から自給自足の生活がしたいと思いまして、選んだ農場が偶々、福島県でした。とてもそこに惹かれたので、岡山から研修に行きました。そしてその後、東北の美しい自然が気に入って、そのままそこに住みつくことになりました。

住みついた場所は電気も電話も通じていない、もちろんガスも水道も通ってない山の中でした。そこにまず自分で小さな小屋を作り、田圃や畑でお米や野菜を育てて、暮し始めました。その後で村の大工さんと知り合って、大工になりたいという思いを持っていたので、4年間、大工修行をしながら田圃や畑を作るという暮しをしていました。

その後で横浜の設計士をしていた男と知り合って、今度は二人で大工を卒業した後で、自分たちで20坪ぐらいの土壁の家を作りました。新しく作った家には夫が電気を欲しいと言ってソーラー発電を取り入れました。電線が来ていないところなので、ここと同じシステムです。

畑にパネルを置いて、そこからできた電気をバッテリーに蓄めて、で、そこのバッテリーに入っている分だけを使いながら生活する、だから曇り、雨が続く時はちょっと電気を抑えながら、暮すという、お天気に合わせたような暮しをしてました。

そこはとても自然の美しいところで、場所が気に入って住みだしたんですけども、住んですぐ、原発が20kmのところにあると気付きました。そして、チェルノブイリで起ったことを本で読んで、コトの大きさということが分って、そこに住みながら自分にできる行動を取っていました。

そこの川内村は«原発城下町»と言われていまして、経済を…原発関連の仕事に就いている人が、沢山いました。村としても、助成金を沢山もらってました。その中で、「原発が危いよ!」って声を挙げることはタブーのような、ちょっと重い空気を感じていました。

それでも村で住む人たちは肌で原発が危いということを知ってました。なぜなら、原発に働きに行った人が病気で亡くなるからです。私と同じ部落に住んでたおじいちゃん、おばあちゃんには、大事な一人息子がいました。その息子さんは若い時に亡くなりました。彼も仕事は原発関連の仕事でした。

また2年ほど前、村で人一倍元気な、村造りに本当に貢献してたいいおじさんがいたんですけども、その人があっと言う間に急病で亡くなりました。その方も仕事の一部で原発関連の下請けの仕事をしてました。

そんな話を幾つも聞きながら、住んできました。村の人たちは危いって気付いてたけども…そうですね、「要らない!」と言い切れない状況にありました。そんな中で私は、もし原発で働いてる人が、同じ電気を造る仕事だったらば、ソーラーパネルを作る工場だったらどんなにいいだろうか、燃料電池やリチウムイオン電池とか、そんな新しい自然エネルギーの工場だったらどんなにいいだろう、同じ電気を作る仕事で。そう思いました。思っていました。

そんな中、3月11日、地震が起り、今まで心配していたことが本当に起ってしまいました。地震は震度6強だったので、家は随分揺れて…揺れたんですけれど私たちが建てた家はうまく揺れてくれる家だったせいか、あまり被害がありませんでした。そして、割れた物を片付けたぐらいで、後は、元々ライフラインのないところですから、停電することもなく、自分たちで掘った井戸から水を汲み上げて、五右衛門風呂を薪で沸かし、薪をくべてご飯を作り、いつもの通り夕方、生活を再開…始めました。

そこまでが、私が川内村で暮していた時間でした。暗くなった頃に、まず冷却水ストップのニュースが、ニュースの中でほんのちょっとです。凄く大きなことなのに、ちょっとだけニュースで聞こえました。何か起ってるんだと思いました。それから、1〜2時間後、3km圏内避難指示というニュースが入ってきて、夫と一緒に、何が起るか分らないから、少し離れたところまで行って寝ようと言って、パジャマを着せた子どもを…5歳と1歳の子どもがいるんですが…子どもをクルマの後ろに布団を敷いて寝せて、取り敢えずの荷物…取り敢えず、取り敢えずって自分に言い聞かせながら、家を出ました。

そして40km離れたとこまで行って一晩明かし、次の日は100km離れた会津のへんまで行って、様子を見てましたが、一向に収まる気配はなく、水素爆発の手前の頃でしたが、私はその時、後ろ髪が引かれて、自分が住んでた場所だけはきっと大丈夫って、避難を決められなかったんですね。

でも夫は小さい子もいるんだから、絶対、川内には帰れないから、離れようって言うんですね。頭では分ってるんです。けども心と体が動かないんですね。突然、裁ち切られて、自分の家から出てきて。

暫くボオーッと会津若松の町で過した後、ある時に「そうか、私が住んでたあそこにも、放射能、来ちゃったんだ」って認めた瞬間があって、とても悲しくって、それから、取り敢えず、暫く滞在できる岡山の実家に帰ろうと決めて、クルマで新潟を通って、3月13日に岡山に着きました。

今、私が住んでいた川内村は全村避難で、村の人たちはほとんど牛を飼っている人や鳥を飼っている人はどうしても離れられなくって、少しは残ってるんですけど、今、川内村は空っぽです。

働き者の大工の親方も、春が来て種を播きたいお百姓さんたちも、狭い避難所やビジネスホテルでこの春を迎えています。

今日、広島の町にバスに乗って入った時に、「ああそうか」って気が付いて、ここは原爆が落ちた時に、火傷して亡くなった人たちは、私はもう、後に生まれて話を聞いたから、その人たちを被爆者としてしか認識してなかったけど、8月6日のその日まで、普通にそこに生活していた人なんだっていう事実に気が付きました。

今、福島県で被災している人たちも、当たり前のように自分の場所で細やかな幸せな日常を送っていた人たちが、自分たちの土地と生活を離れています。

またそれは、放射能は眼に見えません。一見、自分が住んでいた場所は何も風景が変わっていません。少しだけ屋根は落ちてたりするんですけども、変わってません。その事実を認識することの難しさというのも感じています。

人はお金が無くっても土と水と空気さえあれば生きていけます。どんなに札束があったって、人はそれだけで生きていけません。私たちの命を支えるものを、この大地と水と空気です。その一番大切なものを福島県の人たちは奪われてしまいました。

これから5年、10年、ずっと長い間、どうぞ福島の人たちに思いを寄せて、関心を持って、そして愛を送ってあげてください。

それから、この教訓から、エネルギーシフト…この教訓をエネルギーシフトへの、明いエナルギーに変えていけるように、人が繋って…繋がることからしか、力は生まれないと思います。皆で繋って変えていけたらいいなと思っています。

ハイロアクションが去年、始まって、私はそのハイロアクション…廃炉を目指しながら、それぞれが色んなことをやっていこうというのが始まって、私は、じゃあ、何をしようかって思った時に、イマジン、ジョン・レノンのイマジンっていう曲のフラがあるっていうことを知りました。私は「あ、これをやりたい!」と思って、「アロハで廃炉」っていう名前を付けて、去年、福島の仲間たちと練習し始めていました。後程、そのイマジンを踊らせていただきたいと思います。

その前に今日、下関から、素敵なフラシスター、ママさんたちが来られています。後でイマジンも一緒に踊ってもらいますが、その前に、「故郷」のフラを踊っていただきます。どうぞ、福島の地に愛を送りながら、観ていただけたらと思います。

1日2日、泣き通しでした。


大賀あや子

2011年4月14日、福島原発の廃炉を求める署名提出後の記者会見(議員会館)

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私は11日の地震のあった日にまったく停電してましたから、もう大熊町の人たちは誰一人分っていなかったと、テレビ見てなくて分ってなかったと思いますが、実は5時、6時、夕方にディーゼル全部停まったってことで、東京で電気通じてれば、異常事態が分ってましたよね。

それを偶々、携帯電話で私に言ってきた友人がいまして、あと、メールで東井さんとか詳しいNPOの方が、相当危い可能性があるから離れた方が良いのじゃないかと言ってるよって…ただ;そこで電波、切れてしまいまして、ちょっと私自身、ただディーゼル停またっていうだけでは、ちょっとそういう周りじゅう…東京電力に遠慮してお金もらっている人いっぱいいるところで、余りにも不確かな情報の段階で、隣の人が2歳の子がいて心配でも、ちょっと言えなくて、もうちょっと携帯電話通じる所に行って、信頼できる人にいい情報聴いて、もうちょっと分ってから隣の人誘って、まだ放射能漏れてなくても、かなり危いっていうことがはっきり分ったから念のためにお子さんだけ、お子さんと何人かだけ、避難してみませんか、って誘おうかと思ったんですけど、私と夫で電波を求めてクルマで出発しましたら、海の方はさっき言ってたように、大熊を通る高台なので問題、少なかったんですけれど、富岡町は結構低い所もあって、津波の影響だと思いますけれど、国道6号ね、国道に行く途中がもう通行止めになってて、山沿いの県道がもう段差だらけで、いつパンクするか分んない状況で走って...

何とか情報を得なくちゃって言って進んでって進んでって、夜9時半に3km圏避難、っていうような情報を始めて聴いたっていう、私の一日目の直接体験だったんですね。

ーー3月11日の夜の話ですね?

そうですね。

ーー津波とか実際には体験はされてない?

はい、大熊町はほとんど、海岸べりに住んでる人は少ないですから、地震で部分損壊した建物はいっぱい見ましたけれども、で、灯油タンクが倒れて町中、灯油臭かったり、もうテンヤワンヤ、もちろん断水、停電で、ああ、これから暗くなるからどうやって今夜過ごそうね、っていう単なる地震対応のドタバタした町の中だったんですね。

ーー凄い激しい揺れを体験されたんですか?

もの凄かったですね。それで私は危険性を充分知っておりますから、東電に対しても毎月ずっと交渉、参加してましたから、この凄い揺れ方が続いて、本当に原発の配管、どうなってるんだろう、っていうことで凄い恐怖でしたけど、何も分らない、もう…晴れてて、余震以外は平穏な感じで、あの、1時間半くらいで全部、無事に緊急停止しましたっていうことはあったので、でもちゃんと冷えるかな、心配だよねって、言いながら、そんなこと周りの人に、余計な情報、何も確かでない状況で言えないっていう感じで….

あ、でも雪降ってくるし、合羽着といたら、もう今日は家の中に泊まれないから、胡麻化しながら周り近所の人に言ったりして…

それで、その9時半にラジオで始めて聞こえたんですけれど、本当に良くその危険性を知っている私が、もうクルマの中にこの16年ずっと、もしも避難する時のために、乾パンとかマスクとか何人分も用意して、特にお子さん用とかも持って、どなたかに分けてあげられる時あったらって、用意してあった私でも、もう揺れで凄いパニックになって、何かこう、安心する方の情報というか…自分の中で色々な想定があったら、取ろうとして、ああ、3km避難てこと隠さないでそうやってくれているから、何とか上手く避難できるかなって思っちゃって、まああと、事実上、引き返せばパンクして人に迷惑かけるリスクがあるっていうことで、引き返さないまま私と夫で南に向って走り続けてしまいまして、次の日に朝、起きたらぜんぜん前の日よりも、もっと事故が進んでいて、あの…10kmに拡がった…拡がったって5時半に言っているのに、7時、8時のニュースでまだ、避難法とか、避難の経路は協議中とか、双葉だったですけど、そんな話も聞こえたり、「何やってんの!」って言いながら、本当に私、何で引き返して隣の子たちにもっと誘ってあげなかったんだろうと思って、本当に1日2日、そのために泣き通しでした。

テレビに見ちゃ泣きっていう感じだったんです。

で、私自身は親戚がいる土地の方に避難したんですけど、でもそうやって大熊町の人に、自分は何時間か…12時間ぐらいですかね、早く出てきてしまって、もの凄い罪悪感で泣いてたのは最初の1週間で、もうその後は、無事、避難できた10km、20kmの人より、その周りで被曝して大変な混乱、もう、状況にあるってことの方で、もう、それからはずっとそっちの方のことで…心配し、色々、できることを取り組んでっていう日々です。

そして今、もう5週間めくらいですかね、なっております。

本当に判断甘くて、ディーゼル全部停まったっていうくらいじゃあ、何か上手く…想像できなくって、津波、全部被ったとかいうこと分んないから、偶々揺れてディーゼル全部、停まったか、みたいな…だいたい、去年とかでもしょっちゅうディーゼルのトラブルとかもありましたけど、まあ、復旧して間にあいましたってこと何回もやってますから、「ああ、上手く復旧するかな、全部」っていうのは何かのガセで間違いかなって、去年ツイッターで玄海の方でデマ情報流しちゃった経験もあったから…

う〜ん何かそんなこともあって、うちの犬を置いてきちゃったんですよね、はい。